はぐれ者の単騎特攻

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世界が厚みを持つ瞬間 わたしがいなかった街で

世界五分前仮説というものがある。この世界は今から五分前に今あるような形で生み出された物かもしれない(それを否定しきることはできない)という思考実験のような話だ。


否定しきれないのは、どんな証拠を提示しようと我々の記憶や記録も初めからそういう物として作られたと見なされてしまうからだ。この考え方に従えばいい感じに傷んできたジーンズは初めからいい感じに傷んでいたし、しわくちゃのおばあちゃんは初めからしわくちゃだった。おじいちゃんでもいい。


世界五分前仮説がいくら反論を受け付けなくてもそれで私達が論破されるということはない。それでもどこか動揺してしまう自分を認識する。それは私達が「いま、ここ」しか把握できない存在だからだろう。厳密には「いま」は数ナノ秒といったようなごくごくわずかな情報処理に伴うタイムラグがあるが、重要なのは人間は一度過ぎ去った過去を(再)体験することはできないという事実だ。


どうしてこんな話から書き始めたかというと柴崎友香の「わたしがいなかった街で」が世界五分前仮説と真っ向からぶつかるような小説だったからだ。


主人公の砂羽は家で遠い国で起こっている戦争の記録映画を繰り返し見る。過去の東京を描写した日記を読んだ目を通して現在の東京を眺める。こうした日課は主人公の「いつか どこか」への関心の高さを示している。一方で彼女は会社に代表される「いま ここ」には馴染めずにいる。悪口を求められていることを察知して、乗っかってみようとするもあまりにどぎつい言い方になってしまい周囲を困惑させてしまう。そういう生きづらさがある。


砂羽と対照的な職場の後輩は日常生活を楽しんでいる。彼女は否定的に書かれることもなく、砂羽とお互いを面白がっている様だ。こうしたところから柴崎友香は「いま、ここ」を軽んじているわけでは無さそうだと読み取れる。


もう一人の視点人物としてクズイの妹がいる。彼女は砂羽と一度会ったことがあるが、知り合いと呼べるような間柄ではない。エンタメ小説で期待されるような劇的な邂逅もついに訪れない。だからこそ彼女はこの小説に必要なのだ。つまり砂羽がいないところでも厳然としてある現実の象徴としてもう一人の視点人物が要請されるのだ。


終盤、クズイの妹が乗ったバスから見える言葉を交わしたことのない老夫婦の感動している様子が描かれる。2人の人生に積み重なったものは認識できないけど存在する。私(クズイの妹)だってこの境地に辿り着けるかもしれない。客観的には何気ない瞬間なのだがこの小説のクライマックスにふさわしいと思った。
ふとした瞬間に存在を主張する他者の人生に心からリアリティを感じることができるなら世界五分前仮説はきっと屁理屈にもなり得ない。過ぎ去った過去も「私」という媒体から現実味を持って立ち現れるだろう。


僕も電車でたまたま乗り合わせた人にもその人の人生があるという事実に圧倒される……までいかなくても気が遠くなるような思いをすることは多くて、でも本気でそこについて考えてしまうとどうにかなってしまいそうなので目をそらしている。そこに本気で向き合えるのが作家という人なのかもしれない。


この本には凄くたくさんのフックがあって、著者が一々世界五分前仮説を念頭に置いていたとは思えないし私がこの本を読んでいたときもそんなこと考えていなかったが、記憶がほどよく抜け落ちた今思い返せばそんな風にも読めたのではないかと考えられる。だからいつか『わたしがいなかった町で』を読み返した後にこの文章を読んだ私は「なんと的外れな」とあきれかえっているかもしれない。それでいいのだと思う。

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