はぐれ者の単騎特攻

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ウソツキ!ゴクオーくん 倒叙ミステリの新境地

『ウソツキ!ゴクオーくん』を読んだところあまりに面白くて腰を抜かしてしまったので、腰が治るまで養生がてらどこがどう面白かったのか書き残しておく。

 

 

まず『ウソつき!ゴクオーくん』について簡単に説明すると、小学生となってこの世を観察に来た閻魔大王さま(ゴクオーくん)が学校で巻き起こる様々なウソにまつわる事件を解決しながらクラスメート達と友情を育んでいく漫画だ。

 

クラスメートの中でも一際(飛び抜けて)重要な小野天子とゴクオーくんの関係性の凄さはこれまでに800万人が言及してるし、これからも800億人が言及するのでこの記事ではあえて語らない。21話を繰り返し読みましょう。

 

 

次いで個人的かつやや特殊な嗜好に基づく本作のストロングポイントを挙げてしまうと「1話完結型の(倒叙)ミステリ短編集」という形式が既に素晴らしい。特撮やキッズアニメに親しみかつミステリを愛する人間にとってこの形式は異様に肌に合う*1

 

 

「ウソ暴き」と呼ばれる解決編で毎回カタルシスを味わいながらも、各話ごとに様々なキャラクターにスポットライトを当てることで徐々に深みを増していくキャラと関係性の味わいはどんな大長編にも負けないほどに濃厚だ。

子供向けコンテンツに間借りしている身でいうことではないが正直コロコロを見くびっていたことにも気づかされた。

 

 

ミステリとしても漫画だからこそできる手がかりの隠し方が巧みで、例えばユーリィ編の終盤、漫符の些細な使い分けでゴクオーが仕掛けたトリックを示唆するなどは小説でも映像でも再現が困難な漫画にしかできない描写といえるだろう。

 

 

林間学校回での照明が落ちるシーンのようなダブルミーニングも随所に見られる。私は金田一少年の事件簿名探偵コナンも原作にほぼ触れずにここまでやってきたので、実質的には本作が初めて読むミステリー漫画になるし*2、これらの演出がミステリー漫画としてどの程度洗練されたものなのか分からないがそれでもこの漫画がかなりの高みに達していることは確かなように思われる。

 

 

次に倒叙ミステリとしても形式の強みを活かしつつ弱みは完全にカバーしている点に触れたい。

そもそも倒叙ミステリとは、「(探偵に追い詰められる)犯人の視点から事件を切り取るミステリ」だ。よってその強みは犯人の克明な心理描写であり、弱みはどんなに魅力的な視点人物も一話限りの使い捨てになってしまうことである。

 

「ゴクオーくん」はウソをついてしまう人間の弱さやウソをついてしまってからの罪悪感を取りこぼさずに描ききることで倒叙ミステリの強みをこれでもかと活かしている*3。一方で過ちを犯した子供たちはゴクオーくんに裁かれることで罪を償い再びクラスの輪の中に迎え入れられるため、立体的なキャラクターは排除されることなく作品内に蓄積されていくこととなり些細な描写にも文脈がノりまくる。

 

たとえば一度は心の弱さに負けたキャラクターたちもその経験を踏まえて、同じく迷いを抱える人間に手を差し伸べることができる。この温かさは子供向けの作品としても非常に真摯なあり方で「ゴクオーくん」の良さの一端を確実に担っている。

(実際には描写の積み重ねは主役回以外でも行われるため主役回を持たないキャラクターでさえ魅力的だ。画山藤子さん!木軽さん!)

 

 

ところで「『犯人の内面を描く』といっても所詮小学生の話でしょ。感情移入しながら読むのにはキツいんじゃないか」と考えた人はいないだろうか。しかし、小学生だからといってその人間模様や葛藤が幼稚でくだらないと決めつけてはいけない。

 

時に友情の間で板挟みになり、時に嫉妬に身を焦がす彼等がつくウソの全てを自分には関係ないと笑い飛ばせる人はおそらくいないだろう。特に自己欺瞞が絡むウソの話は読んでいてつらくなることさえあり、小学生に突きつけるのは酷だろうと頭を抱えてしまう。

 

 

次に作中で描かれるウソの意味やそこから類推されるテーマについて改めて考えてみたい。かつて当ブログでは「嘘」をテーマにした「嘘喰い」を通して嘘について考えたが今作では嘘喰いとも違ったアプローチでウソに迫っているようだ。

 

天子ちゃんの「意地を張るウソ」や作中の大人や地獄に落ちる人物が見せる「醜いウソ」など実に多様なウソが描かれるが今回は長編での描写に焦点を当てたい。

 

 

「ユーリィ編」ではユーリィが物証をキセキの力で消し去ってしまった際にゴクオーが怒りを露わにする。

オレっち・・・そして、現世に生きる人間たちは・・・、『現実』というルールの中でウソをついて生きている!オマエの「ソレ」は、ある意味ウソを一番バカにした行動だ!

また、天子が天使化の代償として周囲の記憶から消されそうになる点も終盤の展開を彷彿とさせるため注意を払っておくべきだろう。

 

 

「サタン編」ではサタンが物証を排除することでウソ暴きが成立しないような環境を作り出しゴクオーを追い詰めにかかるが、ゴクオーはウソで揺さぶりをかけることでそれを逆手に取り新たな証拠を見つけ出す。いくら消し去ろうとしても過去の痕跡が消え去らずに真実を指し示すことがサタンの敗因となる。

 

 

ネクスト編」では究極のウソとして過去の改変能力が登場し、ゴクオー君本編を丸々無かったこと(ウソ)に変えてしまう衝撃の展開がある。

 

「魔男編」では長い間異空間に幽閉され、変化のない生活を送らされていた魔男はウソを知らないキャラクターだったがゴクオーや天子と関わり、ある騒動によって時間が動き始めたことでウソをつけるようになった。

 

・・・・・・読み込んでいけば更に材料を提示することもできそうだがひとまずはこれくらいにしておこう。

 

ウソとは「過去を覆い隠すベール」ではないか。そして、「ゴクオーくん」の隠された(?)テーマとは「過去に向き合うこと」ではないだろうか。何より示唆的なのは「究極のウソ」が過去の改変として描かれることだ。通常であれば個人の失敗や醜い内面の発露を隠す(過去を無かったことにする)ウソを極限まで拡大することで過去を消去できるのはロジックとしても申し分ない。

 

ベールの比喩を用いるならばゴクオーくんがウソ暴きで用いるウソはいわば「ベールの重ねがけ」であり、ゴクオーのウソを否定しようとする者は期せずして自らがかけたベールをも剥ぎ取ってしまうことになる。

 

 

「ゴクオーくん」を過去に向き合う物語として見つめ直すと、サタンやナナシノが起こす事件はゴクオーくんの過ちに端を発している事に気づく。ゴクオーくんは自らの過ちを認め彼らと新たに向き合い直すことで騒動を収束させる。

ネクストはネク助として過ごした時間を肯定することで救われる。ラスボスがゴクオーのもっとも古い因縁の持ち主である邪仏だったことも偶然ではないだろう。

 

過去と向き合うのはゴクオーくんだけではない。立体的に作り込まれたキャラクターは折に触れて過去の過ちと対峙する。最後の通常回(第115話 過去を背負って前を向け!)では番崎くんも過去に犯したあまりに大きな過ちに向き合う。

 

こうして考えると「ゴクオーくん」においてはどのような意味づけをするにせよ過去からは逃れられないというテーゼを感じ取れるし、最終回において天子がゴクオーくんの記憶を取り戻したのもキセキではなく必然だったと考えられないだろうか。

*1:似た理由で地獄少女も大好きなのでいつかしっかり語りたい、とブログを始めた当初から思っているし書いている

*2:ただ、アンデッドアンラックでの世界のルールの見せ方は割りとミステリのそれに近いのではないかと思う。また、魔人探偵脳噛ネウロも形式はミステリに近いし、時々はミステリをやっていたような気がする

*3:厳密にはウソ暴き後の「ウソをつけない舌」で内心を一気に吐露するパターンも多い