はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

小説 仮面ライダージオウ 感想 ウォズによる壮大タイムトラベル自分探し

近くの書店には置かれていなくて歯ぎしりしていたが、ようやく読めた。息を潜めてネタバレを回避した甲斐あって大変面白く読めました。
予期していたネタバレとしては「燦然! シャンゼリオン」とか「ロボコン強襲!」とかの平成ライダー史の外側からの刺客だったわけですが、実際には予想していたテイストとは大きく異なっていて、仮面ライダージオウの話を真っ当にやっていました。

そして私が気にしていた「ファイナルステージ後なのかジオディケ後なのか問題」の解答は意外にも「テレビ最終回とゲイツマジェスティの間!!!ジオ」。

言ってしまえば「時系列の隙間に差し込まれた真っ当なジオウ」であり、確かにOQのような怪作ではない。
それでも時間軸の分岐があり、分岐以前の時間に遡行することの難しさがあり、分岐を跨いだタイムパラドックスがあり、と、時間SFとしては割りとややこしい話をやっていて一筋縄ではいかない。そのややこしさと引き換えにと言うわけでもないだろうが物語としては凄くシンプルなことをやっていて、本作はウォズが居場所を見つける物語と簡単にまとめてしまえる。


以前旅行で訪れた場所に再び訪れるときに「戻る」とは言わない。そんな例を用いながら「戻る」には帰属意識が必要だと話を展開させた上で、最終回後の世界でウォズが戻るべき場所はどこにあるのかという問いが常に伏流として存在している。


正直僕含めた読者は49話分の付き合いがあるわけだから「我が魔王の従者、そして仲間であり続けたウォズの居場所なんて一つしかないじゃん」と感じるはず。それでも自分は歴史を観測する側であって当事者にはなり得ないという引け目もあって答えに辿り着けないウォズ。こう書くと身分違いの恋愛をめぐるラブコメ的な楽しさに通じる物があるのかも。知らんけど。


余談だけどこうして見ると、どこにでもいられるけどどこにも居続けられないウォズの門矢士ぢからが高い。シンケンジャー回で居場所としての光写眞館にフォーカスを当ててたのめちゃくちゃ偉いんですよ。ディケイドとの対比だと同じ小説でもディケイドは「オダギリジョー佐藤健水嶋ヒロ!」とレジェンドに力点があった一方で今作はディケイドへの言及こそあるもののジオウメンバーだけで成立していて見事に対照的だったなと。

ウォズ

放送開始当初は、逢魔降臨歴を片手に視聴者にあらすじを伝え、最低最悪の未来ではレジスタンス崩壊の引き金を引いたともいう謎めいた印象が強かったが、白ウォズに翻弄されるなどして徐々に親しみやすさを増していく。
そしてOQではゲイツの「俺とお前は似たもの同士だ。ソウゴと出会い、ともに戦い、暮らす中でいつの間にかあいつに惹かれたんだ!」という言葉にソウゴに絆された己を自覚させられ、とうとうジオウの観測者であることをやめてソウゴ達とともに未来へと歩きだした。


今回の小説ではOQを通っていないためか自分の中の感情に名前をつけられていない。この「自分の中の」というのがキモで

厚顔無恥を若さと爽やかさのオブラートに包み込んでしまった人物。

ノリと勢いがない。彼からその二つを取ったらほとんど残らないのに……。

無垢。無邪気。天真爛漫。彼の純粋さを形容すればするほど、常磐ソウゴの中に潜む『陰』の部分も強調される。

いや、たとえ私が正直に話したとして、君は自分にとって都合の悪いものはすべて作り話と断じてしまいそうだぞゲイツ君。
(中略)
「何が事実だ。すべて貴様の作り話に過ぎん……!」
やはり君は自分に都合の悪い話は作り話と断じてしまうんだな、ゲイツ君。

などソウゴやゲイツのパーソナリティはかなり正確に把握しているのに肝心の自分の感情には疎いんですよ。観測者が板につきすぎている。私に細かい感情の機微など持ち得ない。


旅の果てにウォズが答えを見つけると、ソウゴとゲイツツクヨミによるジオウトリニティが誕生、歴史の当事者となった男と肩を並べて構成を同じくするアナザーオーマジオウトリニティと戦う。ここは是非映像で見たいところ。アナザーゲイツやアナザーツクヨミ(全然言及するタイミングがなかった)を出していたのはこのクライマックスのためだったんだと隙のない構成にも感動した。

ソウゴ

今回のソウゴはとある事情から一見すると本編の彼からは大分かけ離れたパーソナリティを有している。こともあろうに勉強熱心、で、世の中をよくしたいという夢は政治家という以前に比べれば小さいスケールに収まっているし、地に足がついてしまっている印象が強い。突拍子もない話に巻き込まれる中で成長していく「新たな魔王」の姿も見所の一つにあげられる。

読み進めていくと新旧の魔王が重なって見える瞬間がある。そこでは三日後のソウゴが自分の消滅にもほとんど動じなかったような達観した境地に新たな魔王もまた到達した。確かあれは鎧武編だから毛利脚本だったと思うんだけど、下山先生の書くソウゴに比べて毛利先生のソウゴは魔王性や底知れなさが強いとの評判の象徴みたいなエピソードを下山先生が書いたのは驚きだった。

ディケジオ

ところで時系列上での最終作はやっぱディケジオ(ジオディケ)なんですね。僕はあの作品のエンタメとしての弱さはダメだろうとしつつ、ライダーをまとめる役割を終えても出番を求められるジオウ(とディケイド)の話として必要性は認める立場。ただ非難轟々の作品ではあったので何かフォローされるのかと予想してたのにノータッチのまま置き続けるとは。東映の胆力はものすごいな。

そんなことを言ってるとスーパーヒーロー戦記でひっくり返されてるおそれはある(今回のは実体化したソウゴ概念っぽいが)し、今後どうひっくり返されるかなんて知れたもんじゃないけど。実際「まだ見ぬ未来のライダーが、世界の壁を越えて何らかの干渉をしてくる可能性は否定できない」そうですので(初めは令ジェネ意識した発言かと思ったけど確かあれはタイムジャッカー発の事件なのでゼロワンは干渉された側なんだよな)……。



330頁にも及ぶ長編が視聴者ないし読者には初めから自明のウォズの居場所の自覚だけを残してきれいさっぱり消えてしまう。そんなところにジオウらしい良さを感じた。