特撮・マンガ・アニメを股にかけ、御年66歳とは思えない精力的な執筆活動を続ける井上敏樹の現時点での最新作が漫画『ジャドウ・シーズン』だ。2026年6月現在では単行本1巻のみが発売されている。
まだ序盤も序盤なのでわからないことだらけの今作だが、今回は無謀にも今作について考えてみたい(既読者の方を想定して書いた記事なので未読の方はブラウザバック推奨)。
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特撮・マンガ・アニメを股にかけ、御年66歳とは思えない精力的な執筆活動を続ける井上敏樹の現時点での最新作が漫画『ジャドウ・シーズン』だ。2026年6月現在では単行本1巻のみが発売されている。
まだ序盤も序盤なのでわからないことだらけの今作だが、今回は無謀にも今作について考えてみたい(既読者の方を想定して書いた記事なので未読の方はブラウザバック推奨)。
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先日のこと、将棋棋士になる要件として編入試験の参加要件を三回満たすことが追加されるかもしれないというニュースが飛び込んできた。なぜかそのニュースが普段将棋に興味を持たない人まで言及するようなトピックになっている。自分の好きなものが多くの人に関心を持たれているのはやはり嬉しいものだ。
ところが個別の言及を見ると私の顔は強張る。将棋棋士になる要件については様々な文脈があり決して簡単にくくることはできないのに、前提知識を共有していない人の妄言がフォロワー数を武器に虚無の権威性を獲得する様を見るとムシャクシャしやがる……失礼、ムシャクシャすんのです。
私もこの件について決して詳しいわけではないが、それでも建設的な話をしたいなら知っておきたい最低限のことは語れるのではないかと思い筆を執った次第だ(ツッコミ・補足大歓迎)。
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※本記事はアギト超能力戦争及び関連作品のネタバレを含みます。
仮面ライダー生誕55周年を機に立ち上げられた3つの新レーベルの1つ、THE KAMENRIDER CHRONICLEの第一弾であるところの『アギト―超能力戦争―』が4月29日に公開されました。
他の2レーベルは具体的な情報が殆ど無い中で実質的に仮面ライダー生誕55周年プロジェクトそのものの第一弾を背負うこととなった今作について私は期待半分怯え半分という心持ちだったのでしたが、結果として満足して劇場を出ることができました。
そもそも『仮面ライダーアギト』という作品は私にとって平成(令和)ライダーの中でも一二を争う好きな作品です。
3人のライダーの物語が独立・並行して描かれる複雑なストーリーライン、それぞれ異なる系統でデザインされた3人(4人)のライダー、美杉家やG3ユニットの会話劇の軽妙さなど良さはいろいろあるのですが、個人的には何といっても複数の物語を並行させる手法が高次の完成を見ている点を挙げたいところです。
その後の平成ライダー(令和ライダー)でも『555』や『カブト』、『鎧武』、『ギーツ』などで群像劇スタイルへの挑戦が見られましたが私見では『アギト』以上に成功しているといえる作品はありません*1。
だからこそアギトの続編がつまらないものだったらどうしようと上映前は不安にもなったのですが、その不安は私にとってはいい意味で裏切られたのです。
ただし私の満足感とは裏腹に今作には厳しい目が向けられています。納得のいくものからいちゃもん染みているものまで色々ありますが、そこからいくつかをピックアップしてストーリー上の不満点について自分なりの受け止め方を書いてみます。
前述した様に私にとって『アギト』とは3人のライダーの群像劇なので主役の一人でもある葦原涼がほぼ出番なしだったことは痛恨事でした。
もちろん葦原涼を演じた友井雄亮氏がDV報道で芸能界を引退しているため彼の出演は難しく、従って葦原涼を見ることはかなわないとは知っていました。であれば次に考えるのは葦原涼の不在をどのように処理するのだろうという点です。
そのシンプルかつ有無を言わせない回答が「彼はすでに死んでいる」です。予告にたびたび映る頭部が損壊したギルスもまたそれを示唆しているようでしたが、私としてはこの回答を採用してほしくはなかった。
やはり葦原涼は傷を負いながらも生きていく男であってほしかった。「仮面ライダーになってしまった男」がそれでも日常をつかむ姿を見たかったという思いもあります。
一方で木場がオミットされていた『パラリゲ』と比べればよくやっているという感覚もあります。こちらも泉政行さんが逝去したために彼抜きの続編でしたが、あちらは木場については言及を避けていました。
作中でもすでに故人であるため木場の不在は無理からぬところとはいえ木場を避けて『555』の続編は無理でしょう。作品への好悪は別としてこれは言い続けます。
閑話休題
葦原について考えてみれば彼は本編中でも一度は死んでいますし、小説では「この後死んでしまうんだろうな」と予感させる幕切れになっていました。守るべき人を見つけ戦った結果死ぬのであれば受け入れる余地はあるのかなと思います。願わくは数年だけでも平穏な暮らしを彼が享受できていたことを。
メタ的な事情からも呑み込む余地のある葦原の死よりも視聴者を困惑させるのは木野さんの変貌でしょう。ダリナンダアンタイッタイ
25年の歳月が人を狂わせるのに十分な時間であることは確かですが過程を飛ばされてる以上豹変の印象は避けられません。
具体的に何が彼を変えてしまったのかは知る由もありませんが、自分一人がアギトであればよいとしていた25年前から全ての人をアギトにしようとする現在への極端な転向は、救世主志向でつなげます。
もし、どうしても悪役化が悲しいのなら来るべきより大きな災厄に備えていた螺旋王路線ということにしてあげましょう。
人間には違いないギルアギトを簡単に殺してしまうのはいかがなものかという問題。
超能力者たちが犯した罪を数え上げ、司法に委ねてもどの道死刑は免れないと言ってしまうのは簡単です。おそらくアメリカなら現場判断で射殺されるでしょう。
しかしながら『アギト』が他者との共存を扱っていた以上、その続編たる本作での安易な他者の切り捨ては不誠実と言われても仕方がないかもしれません。
TVシリーズとどこまでも地続きであるなら、ギルアギトに対してはやはり(ジオウでも存在を無視されていた)G5ユニットが鎮圧に当たるべきところでしょう。そしてギルアギトを無力化するべきでした。
なぜ超能力戦争時点でGユニットが廃止寸前の憂き目にあっていたのか考えてみると、いくつかの原因が考えられます。まずひとつは超能力者の数が少なくなっていたかもしれないこと。
25年前にあれだけ超能力者がいたなら現在はもっと増えていないとおかしいだろうというのはもっともなツッコミですが、生命の進化のスパンをまじめに考えるなら25年は誤差のようなもの。あかつき号事件以後の2年ほどが特異点でその後はアギトに至るほどのものはほぼいないか、あるいはアギトの会のような互助組織が機能していて表立った社会問題にはなっていないとしても無理はないと考えます。
あるいは榊亜希レベルの超能力者なら一般の警官でも複数人で当たれば対処可能ということかもしれません。アギトまで至るようなものは少ないもしくは皆無だったためG5は無用の長物とされ、徐々に立場が弱くなっていき予算も削られていったのでしょう(とはいえ尾室が出世しているので何らかの手柄を挙げたことはあったのかもしれません)。
ギルアギトの処理には反アギト因子という便利な設定があるのだからそれを使ってもよかったでしょう。
ギルアギトを無力化するために反アギト因子を塗付した銃弾を撃ち込む。アギト因子が中和され変身が解けたのもつかの間、苦しみだし絶命する。これならギルアギトが本質的には死人であること(オルフェノクの系譜)を分かりやすく提示しつつ人殺しの後味の悪さも大部分軽減できたのではないでしょうか。
なぜギルアギトが排除されるかですが、それは存在論的な理由ではありません。るり子もまたギルアギトになるのでギルアギトだから倒すという話にはならないようになっています。……であればるり子も通常のギルアギトと同じ見た目にすべきで、それができていないのは不徹底ですが*2。
では何がるり子達とほかのギルアギトを分けたのでしょうか。本作では人間とは何かを描き、そのことによって逆説的に非―人間を描いているようです。その点については次項で。
自首をトンチキ扱いする人もいますが人の枠に踏みとどまることの表明であり、テーマ的にも筋の通ったいいエンディングだと心から感じられました。
井上敏樹や白倉伸一郎のファンは彼らの作品を総体としても見るという奇妙な習性をもっています。そこではコキュートス(ガンダムシークエル)はあかつき号であり流星塾などの発言が飛び交っています。
そのような観点から見たときギルアギトもまた井上敏樹が描き続けてきた怪人の系譜に連なるといえるでしょう。
キャリア初期の傑作『超光戦士シャンゼリオン』の黒岩省吾は限りなく人間に近い感性を持つにいたりました。それ故に正当な手続きで都知事にさえなった彼は人としての悪事を積み重ね、人として死にました。
現在も連載されている漫画版クウガにおいてはしばしば残虐なふるまいをするアギトと、時として感情移入をしてしまうほど人間らしいふるまいを見せるグロンギの境目がゆらぎ続けています。このように様々な角度から人と怪人を分かつものを描いてきた井上敏樹にとっても新境地ともいえるギャグとシリアスが混然一体となった素晴らしいオチです。
前項で持ち出した人とギルアギトを分かつものは、「他者からの言葉を受けて変われるかどうか」です。それは主に人の象徴である氷川誠を通じて描かれます。
まず、冤罪による収監を受け入れていた彼は津上翔一の言葉で脱獄の決意を固めます*3。ギルアギト殺しにも踏み切れませんでしたが、北條透の言葉で決意を固めます。いずれも人の言葉がきっかけです。
最後の自首の決断のみ自身の意志で下しますが、彼の決断は小沢をはじめとする周囲の人々に影響を与えるのです。余談ながらもう一人のキーキャラクターである葵るり子も氷川誠のふるまいを見て自身が抱いていた反発を乗り越えます。
一方でギルアギトは会話が極端に少ないです。それだけなら時間的な制約の面もあるかもしれませんが、彼らの振るう能力にも他者を拒絶するニュアンスがあります。
渋川は卓球に本来あるべきラリーを成り立たせない一方的な攻撃を繰り返す。速水は誰からも観測されることなく他者の感覚器を破壊する。鬼頭は子供と一緒に歌うべき歌を一方的に聴かせる。
改心した大山の透明化能力も本来は自己を安全圏に置く能力でしょう、そんな彼の変容が最後のテレポーテーションを可能にしたのかもしれません。
黒谷の銃は不可視ですが銃自体の公権力との親和性が肝でしょう。るり子の能力には他者を拒むようなニュアンスは皆無です。
そう考えたとき木野が騙る人類の進化の最高到達点(行き止まり)にも別の趣が見て取れます。
それは本当にそう。私は割と流せるタイプなので気にならなかったが人によってはほかのシーンの加点をすべて打ち消してしまうほど不快でしょう。
『竜女戦記』(著 都留泰作)がどんどんすごいことになっている。
2020年に第1巻が刊行され、2026年4月現在で既刊7巻を数えるこの漫画は「このマンガがすごい!2021」ではオトコ編第5位に輝くなど現時点でも一定の評価を受けている。
一方で単行本書下ろしという漫画ではあまり見ない形態や、決してハイペースとは言えない刊行スピードが災いしてか届くべきところに届いていない感もあり、最近読み始めた一ファンながらそこにもどかしさを覚える。
読めば気に入るとしても知らないものは読みようもない。これは作品にとっても読者にとっても極めて不幸なことだ。
読む人ごとに異なる着眼点を持てる切り口の多さがあるだけに一人でも多くの読者の感想を読みたいのにネットには感想がほとんど転がっていない。こんなことは許されない。
続きを読むここ最近立て続けに読んだ2冊の実話怪談集を紹介する。
蛙坂須美『こどもの頃のこわい話 きみのわるい話』(『こどもの』)と朱雀門出『アホになって死んであとはカマキリの卵』(『アホカマ』)だ。
続きを読む飴村行『粘膜大戦』を読みました。粘膜シリーズ第六弾の今作は帯にデカデカと書かれた「シリーズ復活!怪作『粘膜蜥蜴』から17年、奇跡の続編」という文言からわかる通りシリーズ第2作の『粘膜蜥蜴』の続編だ。
そもそも粘膜シリーズは同一世界上で展開されつつも、唯一の短編集である『粘膜戦士』を除けば基本的にはそれぞれが独立したストーリーであるため続編というワードは既存のファンには驚きをもって迎えられただろう。少なくとも私はそうだった。
しかしながら読み進めていくとその驚きは別の驚きにとってかわられることとなる。
「これ……『粘膜蜥蜴』の続編じゃない。『粘膜アベンジャーズ』だ!!」
続きを読む『ハズビン・ホテルへようこそ』(以下『ハズビンホテル』)を見ました。
カートゥーンアニメで現在シーズン2までがprimevideoで配信中。監督のインタビューによれば全5部構想らしい。
あらすじとしては、地獄ではあまりにも多くの死者が流れ込むことによる人口過密に加え、人口の調節と称して繰り返される天国からの侵略(エクスターミネーション)が問題となっていた。そこで地獄のプリンセス、チャーリーは2つの問題を同時に解決する妙案の実現-ハズビンホテルの開業-にむけて動き出す……といったところ。
天国と地獄という概念を知ったものが必ず行き当たる「地獄って絶対に人であふれかえっているよね」というツッコミからはじまっているような作品だがこの作品はそこから何度も跳躍する。
更生していい人になって天国に移住させてもらおう! なんて平和的な解決策なのだろう。普通なら逆に天国に侵攻してやろうとなりそうなところだ。それならそれで面白い話になるだろう。四大天使を四天王的に活用したりするんだろう。
しかしチャーリーの考えだって、地獄に人が多く天国ではそうでもないという前提だけを見れば理にかなっているし、考えようによっては一番の正攻法のようでもある。理想主義者であり現実をよく知らないチャーリーの願いは何度も壁にぶち当たることになる。
まず地獄の住人にとっては天国に行くなんて現実味がないし報酬としても魅力的に見えない。天国にとっても一度道を踏み外したものの更生など考えられない。
ともかく地獄の住人を天国に受け入れてもらうことがハズビンホテルの目的だ。
『ハズビンホテル』に登場するキャラクターの一部を紹介してみる。
チャーリー
地獄のプリンセスにしてハズビンホテルの創設者。プリンセスとしての権威を一切振りかざさず愚直に罪人と向き合うひたむきさが徐々に周囲を変えていく。
ヴァギー
チャーリーの彼女、プリンセスの彼女。ワォ。でも作中でそこを茶化す輩はいない。またもやワォ。理想に燃えるチャーリーとは時にぶつかることもあるが、基本的には危なっかしく思いながらも支え続けている。
アラスター
またの名をラジオデーモン。地獄でも屈指の実力者なのになぜかチャーリーの無謀な挑戦に付き合いハズビンホテルの支配人になる。腹の底が読めず今後起こる波乱の中心人物になると思われている(独自研究)
エンジェル・ダスト
子供には見せられないようなハードな作品で人気者。春を売ったりもする! 私のイチオシ。
彼らは地獄の住民だけあって生前のバックボーンが非常に多種多様だ。切り裂きジャックが跋扈するロンドンを生きたものや新興だったテレビ業界でのし上がって来たもの、果ては○○○出身のものまでいる。そうした背景が徐々に明かされていくのも『ハズビンホテル』の楽しみ方の一つだ。
ハズビンホテルはその名の通りホテルだ。フィクションとホテルといえば思い起こされるのがグランド・ホテル形式だが、ご多分に漏れず『ハズビンホテル』もまた(広義の)グランド・ホテル形式を採用しているといえる。
それぞれのキャラクターにドラマがあり、たとえばエンジェルはヴァレンティノとの契約に縛られ四六時中撮影に駆り出され、しいて逃げ出そうとすれば罵倒と猫なで声の懐柔が無限に付きまとう最低の境遇の中にある。
彼は諦観を抱きながらも、表向きにははぐらかしと悪態の煙幕で人を寄せ付けようとしなかった。ハズビンホテルに滞在するのもホテルの目的に賛同してのことではない。
しかしながらシーズン1ではホテルのバーテンダーであるハスクが彼の心の壁を壊し、二人は互いを思いやるような関係になる。それでも根幹にあるヴァレンティノとの関係はシーズン2でも簡単に解決しない。それどころか……
エンジェルのドラマだけを見るとシーズン2はかなり救いのない話なのだが、それでも本作がエンタメといえるのは、ほかのキャラクターにもドラマが用意されていてそこではしっかりとカタルシスが用意されているからだ。
同じことを裏から言えば本作はグランドホテル形式を採用しているからこそ、個々のドラマに容赦ないロードマップを敷くことができた。
また、ホテルという舞台設定が示唆的だ。あくまでも一時的な居場所でしかないホテルを舞台にしたストーリーは必然的に次の居場所へと登場人物をいざなうだろう。
キリスト教における原罪は女性に帰せられることが多い。一方で『ハズビンホテル』における罪は男性性と強く結び付いている。シーズン1のメインヴィランのアダムはちんこマスター(本人が自称しているんだよ)だし、シーズン2のメインヴィランであるヴォックスは上昇志向に取りつかれている。
この配置はおそらく意図的なもので、今後どのように発展するのか非常に気になるところだ。
ハズビンホテルの住人の天国への挑戦は基本的には苦難の道であり、そもそも地獄に落ちている以上彼らの出発点は失敗の結果だ。
おそらくシーズン3以降もチャーリーたちの道には多くの困難が待ち構えていて、時には立ち上がれないほどの絶望が待っているかもしれない。それでもきっと彼らはリトライを続けるだろう。
ただのリトライじゃねぇぞ。ド級のリトライ、ハズビンホテルだ!