※本記事はアギト超能力戦争及び関連作品のネタバレを含みます。
仮面ライダー生誕55周年を機に立ち上げられた3つの新レーベルの1つ、THE KAMENRIDER CHRONICLEの第一弾であるところの『アギト―超能力戦争―』が4月29日に公開されました。
他の2レーベルは具体的な情報が殆ど無い中で実質的に仮面ライダー生誕55周年プロジェクトそのものの第一弾を背負うこととなった今作について私は期待半分怯え半分という心持ちだったのでしたが、結果として満足して劇場を出ることができました。
そもそも『仮面ライダーアギト』という作品は私にとって平成(令和)ライダーの中でも一二を争う好きな作品です。
3人のライダーの物語が独立・並行して描かれる複雑なストーリーライン、それぞれ異なる系統でデザインされた3人(4人)のライダー、美杉家やG3ユニットの会話劇の軽妙さなど良さはいろいろあるのですが、個人的には何といっても複数の物語を並行させる手法が高次の完成を見ている点を挙げたいところです。
その後の平成ライダー(令和ライダー)でも『555』や『カブト』、『鎧武』、『ギーツ』などで群像劇スタイルへの挑戦が見られましたが私見では『アギト』以上に成功しているといえる作品はありません*1。
だからこそアギトの続編がつまらないものだったらどうしようと上映前は不安にもなったのですが、その不安は私にとってはいい意味で裏切られたのです。
ただし私の満足感とは裏腹に今作には厳しい目が向けられています。納得のいくものからいちゃもん染みているものまで色々ありますが、そこからいくつかをピックアップしてストーリー上の不満点について自分なりの受け止め方を書いてみます。
葦原と木野
前述した様に私にとって『アギト』とは3人のライダーの群像劇なので主役の一人でもある葦原涼がほぼ出番なしだったことは痛恨事でした。
もちろん葦原涼を演じた友井雄亮氏がDV報道で芸能界を引退しているため彼の出演は難しく、従って葦原涼を見ることはかなわないとは知っていました。であれば次に考えるのは葦原涼の不在をどのように処理するのだろうという点です。
そのシンプルかつ有無を言わせない回答が「彼はすでに死んでいる」です。予告にたびたび映る頭部が損壊したギルスもまたそれを示唆しているようでしたが、私としてはこの回答を採用してほしくはなかった。
やはり葦原涼は傷を負いながらも生きていく男であってほしかった。「仮面ライダーになってしまった男」がそれでも日常をつかむ姿を見たかったという思いもあります。
一方で木場がオミットされていた『パラリゲ』と比べればよくやっているという感覚もあります。こちらも泉政行さんが逝去したために彼抜きの続編でしたが、あちらは木場については言及を避けていました。
作中でもすでに故人であるため木場の不在は無理からぬところとはいえ木場を避けて『555』の続編は無理でしょう。作品への好悪は別としてこれは言い続けます。
閑話休題
葦原について考えてみれば彼は本編中でも一度は死んでいますし、小説では「この後死んでしまうんだろうな」と予感させる幕切れになっていました。守るべき人を見つけ戦った結果死ぬのであれば受け入れる余地はあるのかなと思います。願わくは数年だけでも平穏な暮らしを彼が享受できていたことを。
メタ的な事情からも呑み込む余地のある葦原の死よりも視聴者を困惑させるのは木野さんの変貌でしょう。ダリナンダアンタイッタイ
25年の歳月が人を狂わせるのに十分な時間であることは確かですが過程を飛ばされてる以上豹変の印象は避けられません。
具体的に何が彼を変えてしまったのかは知る由もありませんが、自分一人がアギトであればよいとしていた25年前から全ての人をアギトにしようとする現在への極端な転向は、救世主志向でつなげます。
もし、どうしても悪役化が悲しいのなら来るべきより大きな災厄に備えていた螺旋王路線ということにしてあげましょう。
ギルアギトの処理
人間には違いないギルアギトを簡単に殺してしまうのはいかがなものかという問題。
超能力者たちが犯した罪を数え上げ、司法に委ねてもどの道死刑は免れないと言ってしまうのは簡単です。おそらくアメリカなら現場判断で射殺されるでしょう。
しかしながら『アギト』が他者との共存を扱っていた以上、その続編たる本作での安易な他者の切り捨ては不誠実と言われても仕方がないかもしれません。
TVシリーズとどこまでも地続きであるなら、ギルアギトに対してはやはり(ジオウでも存在を無視されていた)G5ユニットが鎮圧に当たるべきところでしょう。そしてギルアギトを無力化するべきでした。
なぜ超能力戦争時点でGユニットが廃止寸前の憂き目にあっていたのか考えてみると、いくつかの原因が考えられます。まずひとつは超能力者の数が少なくなっていたかもしれないこと。
25年前にあれだけ超能力者がいたなら現在はもっと増えていないとおかしいだろうというのはもっともなツッコミですが、生命の進化のスパンをまじめに考えるなら25年は誤差のようなもの。あかつき号事件以後の2年ほどが特異点でその後はアギトに至るほどのものはほぼいないか、あるいはアギトの会のような互助組織が機能していて表立った社会問題にはなっていないとしても無理はないと考えます。
あるいは榊亜希レベルの超能力者なら一般の警官でも複数人で当たれば対処可能ということかもしれません。アギトまで至るようなものは少ないもしくは皆無だったためG5は無用の長物とされ、徐々に立場が弱くなっていき予算も削られていったのでしょう(とはいえ尾室が出世しているので何らかの手柄を挙げたことはあったのかもしれません)。
ギルアギトの処理には反アギト因子という便利な設定があるのだからそれを使ってもよかったでしょう。
ギルアギトを無力化するために反アギト因子を塗付した銃弾を撃ち込む。アギト因子が中和され変身が解けたのもつかの間、苦しみだし絶命する。これならギルアギトが本質的には死人であること(オルフェノクの系譜)を分かりやすく提示しつつ人殺しの後味の悪さも大部分軽減できたのではないでしょうか。
なぜギルアギトが排除されるかですが、それは存在論的な理由ではありません。るり子もまたギルアギトになるのでギルアギトだから倒すという話にはならないようになっています。……であればるり子も通常のギルアギトと同じ見た目にすべきで、それができていないのは不徹底ですが*2。
では何がるり子達とほかのギルアギトを分けたのでしょうか。本作では人間とは何かを描き、そのことによって逆説的に非―人間を描いているようです。その点については次項で。
自首エンド
自首をトンチキ扱いする人もいますが人の枠に踏みとどまることの表明であり、テーマ的にも筋の通ったいいエンディングだと心から感じられました。
井上敏樹や白倉伸一郎のファンは彼らの作品を総体としても見るという奇妙な習性をもっています。そこではコキュートス(ガンダムシークエル)はあかつき号であり流星塾などの発言が飛び交っています。
そのような観点から見たときギルアギトもまた井上敏樹が描き続けてきた怪人の系譜に連なるといえるでしょう。
キャリア初期の傑作『超光戦士シャンゼリオン』の黒岩省吾は限りなく人間に近い感性を持つにいたりました。それ故に正当な手続きで都知事にさえなった彼は人としての悪事を積み重ね、人として死にました。
現在も連載されている漫画版クウガにおいてはしばしば残虐なふるまいをするアギトと、時として感情移入をしてしまうほど人間らしいふるまいを見せるグロンギの境目がゆらぎ続けています。このように様々な角度から人と怪人を分かつものを描いてきた井上敏樹にとっても新境地ともいえるギャグとシリアスが混然一体となった素晴らしいオチです。
前項で持ち出した人とギルアギトを分かつものは、「他者からの言葉を受けて変われるかどうか」です。それは主に人の象徴である氷川誠を通じて描かれます。
まず、冤罪による収監を受け入れていた彼は津上翔一の言葉で脱獄の決意を固めます*3。ギルアギト殺しにも踏み切れませんでしたが、北條透の言葉で決意を固めます。いずれも人の言葉がきっかけです。
最後の自首の決断のみ自身の意志で下しますが、彼の決断は小沢をはじめとする周囲の人々に影響を与えるのです。余談ながらもう一人のキーキャラクターである葵るり子も氷川誠のふるまいを見て自身が抱いていた反発を乗り越えます。
一方でギルアギトは会話が極端に少ないです。それだけなら時間的な制約の面もあるかもしれませんが、彼らの振るう能力にも他者を拒絶するニュアンスがあります。
渋川は卓球に本来あるべきラリーを成り立たせない一方的な攻撃を繰り返す。速水は誰からも観測されることなく他者の感覚器を破壊する。鬼頭は子供と一緒に歌うべき歌を一方的に聴かせる。
改心した大山の透明化能力も本来は自己を安全圏に置く能力でしょう、そんな彼の変容が最後のテレポーテーションを可能にしたのかもしれません。
黒谷の銃は不可視ですが銃自体の公権力との親和性が肝でしょう。るり子の能力には他者を拒むようなニュアンスは皆無です。
そう考えたとき木野が騙る人類の進化の最高到達点(行き止まり)にも別の趣が見て取れます。
ギャグシーンがふてほど(流行語大賞)
それは本当にそう。私は割と流せるタイプなので気にならなかったが人によってはほかのシーンの加点をすべて打ち消してしまうほど不快でしょう。
tyudo-n.hatenablog.com