はぐれ者の単騎特攻

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自助共助の時代の物語としての「ゴジラ-1.0」が「シン・ゴジラ」と対照的だった

「まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」
 菅氏は14日、新総裁に選出された直後のあいさつで、目指す社会像として重ねて「自助・共助・公助」を掲げ、こう語った。

菅氏の描く社会像は… 「自助」優先、弱者置き去りの懸念:東京新聞 TOKYO Web

 

足らぬ足らぬは工夫が足らぬ

   ー太平洋戦争の標語

 

2023年11月3日に全国公開された「ゴジラ-1.0」は公開から三日間の初動で興行収入10億円を突破するロケットスタートを切っているなど既にヒット作と呼ぶに相応しい作品となっている。

徹底してアオリを使うことで生身の人間がゴジラと相対しているかのような感覚をもたらす映像は非常に見応えがあり、細かい突っ込みどころや丁寧すぎる前振りなどに引っかかりつつも私自身満足して映画館を出ることができた。

 

初代ゴジラは戦争の傷から癒えつつも核の脅威に晒されていた時代を巧みにつかんだことで人々から愛されたとされているが、今作が人々の心をつかんだ理由がもし社会との繋がりに求められるならそれは一体何なのだろうか。

 

この点を考えるにあたっては「シン・ゴジラ」との比較が大きな手がかりとなるはずだ。なぜなら「シン・ゴジラ」は「ゴジラ-1.0」の前作で公開時期が比較的近く、ゴジラ以外の怪獣が登場しない点や特撮以外のジャンルで既に活躍している監督を招聘した点など共通点が多い*1にも関わらずいくつかの点では見事に異なる方向性を示しているからだ。

 

山崎監督は「シン・ゴジラ」を鑑賞し「この次にやる人はとんでもなく大変だね」とコメントした通り前作へのリスペクトを持っているからこそ自身の作品では同じ土俵に上ることを避けたのかもしれない。しかし、差別化を図った結果なのだとしてもゴジラ-1.0はシン・ゴジラとは異なる「今」を写した作品に見えてならない。

 

 

まずは改めて「シン・ゴジラ」を振り返ってみたい。「現実vs虚構」のキャッチコピーを掲げたこの作品で虚構たるゴジラに立ち向かう現実とは官僚や政治家だった。

官僚達は極めて理知的に推論を積み重ねてゴジラの弱点を把握し、ヤシオリ作戦などの対策を立案する。政治家もまた自衛隊の攻撃開始直前であっても民間人の存在を知れば攻撃を中止する国民尊重の態度を見せる、核による攻撃には強い忌避感を示しぎりぎりまで回避に向けて動くなど戦後的な価値観を強く体現していると言えるだろう。

国難にあたっては公が矢面に立ち、民は避難区域から逃げることのできなかった老婆に代表されるように庇護される存在として描かれている。

 

 

一方で「ゴジラ-1.0」では戦後の混乱期だけあって政府は直接的には頼りにならない。ゴジラ上陸前のゴジラ対策で主人公である敷島達に課せられたミッションは軍艦高雄が到着するまでの時間稼ぎだった。武器となる機雷は現地調達せよというお達しを考慮に入れずとも事実上の特攻命令だろう。

 

銀座上陸時にも有効な手立てを打てなかった政府(国会議事堂前に戦車を配備する保身は描かれているのが実にグロテスク)の助けを期待することなく民間人はチームを立ち上げ自らゴジラに立ち向かう。ガスと浮き袋による強制的な加圧と減圧でゴジラを機能停止に追い込む作戦はある程度まで成果を上げるも膠着状態に陥り成功には至らない。

 

そこで助太刀に現れるのはやはり政府ではなく水島が集めた(とは明言されてなかったかも)数多くの民間船だ。

彼らが文字通り力を合わせゴジラを引き上げることで、決め手となる敷島の内部からの攻撃へが可能になったことを考えれば、名もなき助っ人の援護こそがゴジラを倒したとも言えるかもしれない。

 

こうして二作を並べてみると政府と民間人の扱い方の反転は面白いほどだ。これらの違いを端的に表現するならば「公助から自助共助へ」となるか。「公助から自助共助」を念頭に再度「ゴジラ-1.0」を見直すと敷島の生活も違った形で見えてくる。

 

戦後自分の暮らしもままならない敷島は成り行きで典子という赤ん坊連れの女性を家に住まわせることになる。

若い男女と幼子という組み合わせは非常に核家族的だが、実際には敷島と典子達のみならず、典子と子供の間にも血縁関係はない。血縁に拠らない助け合いの関係は地域社会にも根付いていて、一見取っつきにくい隣人澄子も子供を抱えて困窮する敷島達を見かねてなにかと手を貸してくれるし、後の典子の葬儀では多くの弔問客が訪れる様子が確認できる。

 

 

「自分たちに降りかかる火の粉は自分たちで振り払うしかない」という感覚は非常に鋭敏にコロナ禍を経験した令和の日本を捉えていたと思うが、一方で時代の倫理に有効な対策を打ち出せていたかといえば心許ない。

つまり、自分の身を守れず手を差し伸べてくれる誰かがいるわけでもない人はどうすれば良いのか、そもそもこのような状態が本当に望ましいかどうかという問題は手つかずになっているのだ。

 

「誰かが貧乏くじを引かなくちゃ」というナルシシズム混じりの格好良さは私好みではあるが結局のところ現状追認的だし、日本の有り様を度々批判する登場人物もどこか諦観をにじませているように見える。

 

わだつみ作戦の参加者や銀座で身を挺して敷島を助けた典子のように人助けには自己犠牲のリスクが付きものだし、その意味で特攻を断念した特攻兵である敷島が澄子からなじられるシーンは本作のテーゼをある程度象徴しているかもしれない。

 

しかし特攻という究極の自己犠牲にはギリギリまで接近しながらもしっかりと否定を突きつけているのが興味深い。

 

総括を述べれば本作は良質な娯楽大作だが、テーマまで射程に入れて考えたときにもう一歩踏み込みがほしかったということになる。

今後新たなゴジラが生まれたときそこにはどんな日本が映し出されているのかを楽しみに待ちたい。

*1:どなたかが言っていたがどちらの作品も数度のゴジラとの遭遇の結果大敗した人類が再起し、薄氷の勝利をつかむという大筋においても共通している