はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

TAROMAN 緻密なでたらめさが生んだ令和の70年代特撮

半端な知識で分かったような口を利く、それがいかに傲慢なことか 岡本太郎

 

タイムラインでよく名前を見るからと軽い気持ちで見た「TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇」がべらぼうに面白かった。

 

ご存じない方のために説明すると、TAROMANは1970年代に放送された特撮番組で岡本太郎の精神性でもって自由気ままに振る舞う巨人「タローマン」の活躍を描いている。著名人にもファンが存在し、サカナクションの山口一郎は再放送でどっぷりはまって現在に至るまでグッズ収集を行っている。

 

……番組を通して発信されるこうした外部の文脈ははっきり言ってしまえばまるきりの嘘だ。それなのに嘘だと簡単には片付けられない異様な迫力がある*1

 

2022年に70年代のヒーローを作ることにとことん本気なのだ。

 

その努力は例えば特撮技術に現れる。セットにはミニチュアがふんだんに使われていてロングショットにもよく耐える。ここをケチってしまうと画面の密度がまるで変わってくるがTAROMAN制作陣に抜かりはないのである。

見えるか見えないかのピアノ線の奥ゆかしさにも好感が持てる。昭和特撮パロで「映り込んでしまう繰演のピアノ線」をやろうとするとついわかりやすくはっきりと映してしまうものだがそんな愚をTAROMANは犯さない。当時のスタッフが見せたくて見せていたわけじゃないものを露骨に見せびらかされると下品で萎えてしまうマニア心をよく捉えてくれるのだ。

他にも巨大な手が人を掴む際の合成ショットや人の写真が入ったガチャポンのカプセルを人が閉じ込められた小部屋として登場させる思い切りの良さ*2などこだわりは枚挙にいとまが無い。

 

映像面でいえばアフレコの味わい深さも見逃せない。口と声がずれることでその隙間から70年代アトモスフィアが吹き出てくる。のみならずアフレコが吹き替えの違和感を無効化している。俳優の演技に70年代風の声を乗せるという発想も凄いがそのオーダーに応える人も凄い。

特に女性隊員を見て感じるのだが声が70年代すぎる。発声方法が違うのか甲高くてちょっとハキハキしていて、抑揚も今とは少しなんだけど違う。言語化はしづらいんだけど古い特撮やアニメを見ていると確実に「ある」傾向を完璧に捉えられていて素晴らしかった。子供のなんとも言えない棒読みは近頃のハイスペックな子役からは摂取できない栄養素に満ちていた。

 

「70年代特撮」へのこだわりは特殊撮影技術にとどまらない。視聴者に向かって語りかけるナレーションや特に嬉しくない子供のレギュラーなど時代が下るにつれ特撮番組が洗練されると淘汰された要素が懐かしい空気を醸し出している。

 

 

本編に絞って見てみてもTAROMANがよくできた「70年代特撮」であることはよくわかるし、山口一郎パートにまで目を向ければそのできばえは空恐ろしいほどだ。しかし、もしそれだけならこの作品が世に広く知られることはなかったし私も視聴しようとは考えなかったはずだ。今作を話題作たらしめているのはやはり岡本太郎だろう。

 

taro-okamoto.or.jp

 

TAROMANの至る所にちりばめられた言葉から岡本太郎の思想を私なりにまとめるなら、作為や安全策を嫌い、独力で道を切り拓くことをよしとするといったあたりになるがその思想が特撮ヒーローと組み合わさることでとんでもない化学変化を引き起こしている。

 

「でたらめをやってごらん」という言葉に視聴者のイメージは引っ張られてしまうがTAROMANの構成は非常にクレバー、緻密なものだ。そもそも「でたらめ」と「緻密さ」は矛盾しない。でたらめとは考え無しのことではなく、固定観念を打ち崩すオリジナリティのことなのだ。きっと。

 

タンクローリーを踏み潰そうと触手でビルの窓をちまちま割ろうと「芸術は爆発だ」で奇獣を爆破する初期のタローマンにはヒーロー然としたところがあった。その振る舞いが視聴者にとってパターンと化したところで「同じ事を繰り返すくらいなら、死んでしまえ」が来るのがうまい。

この話でタローマンは勝利を期待する人々の声援に背を向け自ら負けようとする。このパターン崩しは3話分のパターンのみならず特撮ヒーローが積み重ねてきたものへの崩しでもあるので非常に強烈だ。さらに、奇獣が爆破した際の歩道橋に絵の具を溶かした水が飛び散るバンクが破棄されてビルが破壊されてショックを受ける社長の天丼ギャグもフェードアウトする。

これらの変化は当然「同じ事を~」を反映したものだがこの言葉を徹底してしまえば作品そのものが後戻りできない場所まで突き進んで行かざるを得ない。

 

直後の第五話、奇獣疾走する眼とタローマンは鬼ごっこで遊ぶ。「同じ~」という言葉に従えば自然な展開だが命がけで人々を助けるヒーローという先入観は目くらましとしてかなり有効に機能していると思う。

 

その後も岡本太郎精神に則りヒーローの常道を踏み外し続けたタローマンは最終回で地球もろとも太陽の塔を滅する。マンネリを明確に拒否したタローマンの行き着く先としてこれ以上はないのではないか。

しかし、TAROMANは70年代特撮だったはずで、異様な展開がヒーロー番組の文脈におかれることで視聴者の意識に常識方向へと引き戻そうとする力が働き岡本太郎の苛烈さが輝く。これは異化効果の手本と言ってもいいくらいだ。

 

岡本太郎の言葉のみならず作品もTAROMANを彩っているのだが、ここも一筋縄ではいかない。岡本太郎の芸術作品から採られた奇獣のデザインには怪獣らしからぬ異物感がありプルトンやガンQ、恐竜戦車のような存在感で短い出番の中でもきっちり仕事をしていく。ネーミングも芸術作品と同一だけあって名詞に縛られない自由さがある。「未来を見た」はかっこよすぎる。

怪獣として現れることで作品に対しても異化効果が発揮されている。まさしく「なんだこれは」というわけだ。

 

ここまでTAROMANについて語ってきたが、これはあくまで私の感想であり語る人によっていくらでも異なった魅力が引き出せるはずだ。今作はゴジラKoMや仮面ライダー1号に並ぶ怪作として長く語られるべき作品であり、作品語りをしやすくするためにも映像ソフト化が待ち望まれる。

 

 

*1:見事に騙されている人を見たこともある

*2:予算の問題もあるだろうが