はぐれ者の単騎特攻

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ガッチャードとオーズの錬金術を比較してみた

先日ひらパーで上演されたオーズとガッチャードのショーが錬金術という共通点を上手く絡めた秀逸な物だったとタイムラインで話題になっていた。

確かに両作品はともに錬金術に関連した作品だが、内実を見ていくとその扱われ方には違いがあるのではないかと思ったため、ここでは2つの錬金術を比較してみたい。どのような違いが見つかるのか、それとも見つからないのか私自身楽しみだ。

 

錬金術とは

そもそも錬金術とはどのような営みなのか。デジタル大辞泉の定義*1を引けば次の通りとなる。

 

紀元1世紀ごろ以前にエジプトに始まり、アラビアを経てヨーロッパに広がった、卑金属を貴金属の金に変えようとする化学技術。さらに不老不死の仙薬を得ることができるとされ、呪術じゅじゅつ的性格をもった。科学としては誤りであったが、多くの化学的知識が蓄積され、近代化学成立の基礎資料となった。アルケミー。
 転じて、ありふれたもの、値打ちのないものを貴重なものに作り変えるという術。
 (「金」を「かね」と意識して)お金・財産を生み出す特別な方法。また、非常に貴重なものを作り出す方法。「必ず儲かるという錬金術はない」

 

重要なのはやはり1の項で、卑金属から貴金属を生み出そうとする研究だった点、その目的こそ果たせなかったが過程で多くの発見を副産物としてのこしているという点だ。現在では卑金属から貴金属は生まれないと広く知られているが、目的の壮大さや学究的な面からか創作のモチーフとしては今なお人気を誇っている。

 

錬金術が産み出したもの

オーズにしてもガッチャードにしても錬金術とはいうものの金を産み出すことに主眼をおいていない。メダルやケミーが主たる成果で、金に執着を見せていたグリオンはむしろ異質に見えるほどだ。

 

セルメダルとコアメダルは欲望というテーマも合わさって硬貨を強く連想させる。デジタル大辞泉の定義での3の項を意識しているようで面白い符合だ。

本来の意味に立ち返ってみても、卑金属であっても鋳造と刻印によって貴金属以上の価値を持ちうる硬貨はある意味では非常に錬金術的であるといえるかもしれない。一方でセルメダルとコアメダルの間にある格差を卑金属と貴金属の間のそれに結びつけるならば錬金術とは遠いと考えることもまた可能だ。

 

人工生命体と謳われるケミーは一見錬金術とは全くの無関係のようだ。しかし、作中でも扱われるホムンクルスからの連想ならば錬金術と無関係とも言い切れない。彼らは悪意に引きずり込まれる受動的な側面もあるが、自らの意思も持っている点で単なる被造物に留まらない活き活きとした印象を残す。

 

 

10という数の取り扱い方

 

両作品において10という数には意味が与えられているが、その意味には大きな違いがある。

オーズでは10枚で一組だったコアメダルから1枚抜き取られることで生じる欠落によってグリードが生まれた。満たされることのない欲望を抱えた彼らは10枚以上のメダルを与えられても満足することなく動き続けた。

 

「欲望の器」という表現から分かるとおりオーズにおいて願い、叶えられる欲望の大きさはある程度規定されている*2。上述したとおりグリードの欲望は最終回のアンクを除いて満たされることはないが、かつては満足を覚えていたのだから比喩的には器の底が抜けた状態と表すのが適当だし、「Anything Goes!」でも「満たされる」というワードはサビで繰り返し使われる。

ヤミーを欲望の器から漏れ出た欲望であると解釈しても良いだろう(多くのグリードが宿主にメダルを投入することでヤミーを生み出している)。

であればグリードにとって10とそれ以外の数の間にある満たされることの無い差異は絶望的に大きいといえる。その差異は欠落として認識される。そして欠落を埋めるという意思をもっとも明確に持っていたロストアンクはこの意味でもっと注目されても良いのではないか。

 

 

ガッチャードにおいても始祖のケミーたるレベルナンバー10によって10の特別さが強調されているが、その特別さはオーズに比べると非常にささやかなものだ。ホッパー1とスチームライナーのような2体のケミーの組み合わせによって容易に10が実現する。のみならずスチームライナーはテンライナーに、ホッパー1はクロスホッパーに姿を変えることで単体で10を体現しさえする。

 

1から10の間にある差異は誰かと一緒になることでも独力でも乗り越えられる。それは宝太郎が高校生であり錬金アカデミーの生徒でもあること、誰かと手を取り合いながら成長する発展途上の存在であることとも整合する。

「万物はこれなるひとつ物の改造として生まれ受く」の言葉通りガッチャード世界では万物の可塑性が高く設定されているのかもしれない。

 

 

 

 

現代の錬金術

オーズでは800年前に錬金術師が存在したことは明らかになっているが、古代の王が封印された後どうなったのか、そもそもいつから存在した技術なのか明らかになっていない(もしかしたら小説版では触れられていたかも)。

現代では鴻上コーポレーションによって研究が引き継がれているが、錬金術の復活ではなく、科学による錬金術の成果の補強といった印象だ。バースやカンドロイドのメカニカルな見た目のみならず、メダルが元々は博物館に置かれていた点も現代と800年前の断絶を感じさせる。

 

ガッチャード世界では錬金術は今もなお生き延びている。他ならぬ宝太郎自身が錬金術師であり他の主要人物もほとんどが錬金術師だ。(ギーツとの摺り合わせから設定された意味合いも大きいのならばあまり重視すべきでは無いかも知れないが)2000年前から連綿と続く伝統が存在する。一方で属人的な技術に左右される領域が大きい未成熟な分野にも見える。

 

 

おわりに

この比較が何か意味のあるものになったかはわからないがオーズを錬金術の作品として捉え直す機会になったのでよしとする。実は文芸設定上ではアギトやウィザードも賢者の石を扱っているので錬金術作品と言えなくもないし、実際記事の中で触れられないかと苦心したのだがどう頑張っても唐突な印象を免れなかったので全て消した。

 

tyudo-n.hatenablog.com

 

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*1:このリンクでは世界大百科事典の解説も記載されているが、そちらの解説がかなり詳しいので興味があるなら読んでみてほしい

*2:この見方と不整合な要素として「OOO」に無限大を超えるとの意味があることがあげられる。主人公なのでルールの外側に立てるということなのだろうか