はぐれ者の単騎特攻

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千年王国から遠く離れて―「終末少女」「征服少女」「侵略少女」

古野まほろは著作である推理小説シリーズ「天国三部作」の最終刊である「侵略少女」の刊行に寄せて「本作品は極めてオーソドックスなロジック本格だ。だが主観的に述べれば、これはガラパゴス化の枢奥と最果てに到達した、総伏線主義に立脚するフーダニット本格である。ゆえに正統と異端、論と情、聖と淫等々が双立する。要は純粋本格にして奇書だ。」と述べている。

 

古野まほろ【エッセイ】新刊『侵略少女 EXIL girls』に寄せて|ジャーロ編集部|kobunsha|note

 

そして実際に「侵略少女」は作者の自負を裏切らない優れた本格ミステリの極北となっているし、奇書と言っても良いかもしれない。だが奇書という言葉は多義的であるために意味の取り違えが発生しやすくもある。

たとえば辞書的には「珍しい本」や「飛び抜けて面白い本」を意味するが単に「奇」妙な本を指す用例もある。

 

しかしことミステリの文脈に限れば奇書という言葉は三大(四大)奇書に影響を受けた、或いは特徴を共有している作品を指していると理解してしまって問題はない。

三大奇書とは「ドグラ・マグラ」、「黒死館殺人事件」、「虚無への供物」を指し、これに「匣の中の失楽」を加えて四大奇書とする場合もある。

 

これらの本をいかに定義づけるかについては未だに意見が割れているのだが、それでも比較的広く合意をとれそうな線で言えば「解くべき謎を持ちながら≓推理小説の体裁を使いながらそれを置き去りにしてしまうような過剰さ(衒学や自己言及)を持っている小説」とでもなるだろうか。

本記事では上のよく言えば包括的な定義を前提に話を進める。さて、この定義によれば奇書はほとんど必然的に推理小説としては破調のものになってしまう。つまり「均整のとれた本格推理」とは相性が悪い*1

 

「正統と異端」、「論と情」、「聖と淫」などの対立する要素を包括する形で「純粋本格であり奇書」が並び立っているのもこうした取り合わせの悪さによるものだろう。では「侵略少女」ひいては「天国三部作」のどこが破調なのか、この記事ではシリーズ全体を通しての奇書性の一端に触れてみるつもりだがさてどうなるか。

本当に何も分からないよ。

 

 

まずは本シリーズが本格ミステリのコードに則っていることを確認しよう。天国三部作では大まかに言ってクローズドサークル(閉鎖環境)を舞台として、他の命を奪ったものは誰なのかを読者に提示された状況を元に理詰めで解き明かしている。このような読み物が本格ミステリという集合に包含されることは自明だろう(自明とさせてくれ!)。

 

新本格ミステリの雄である有栖川有栖に私淑する古野はおそらくこうしたコードに強いこだわりを持っていて、特に膨大な手がかりを使って精緻に組み立てられる推理は極めて長大でこう言って良ければ執拗なものだ(探偵役は推理を披露すると登場人物から「ねちっこい」「陰湿」と非難されるのが半ばお約束だし唯一その非難を免れた探偵も他の作品に出張した際に「陰険」と評されている)。

 

100頁以上にも及ぶことも珍しくない推理を下支えするのが特殊設定である。天国三部作では天使と悪魔、神*2などキリスト教を強く想起させる存在がいくつも登場している。

彼らにはいくつかの縛りとなる特徴がもうけられているが特に重要となるのは天使だろう。

 

天使の特徴として「思念でのコミュニケーションがとれる」、「構造を理解できる物ならイメージすることで生み出せる」などがあるが、特に重要なのは結果的にそうなってしまうようなことも含めて決して嘘をつけないというものだ。地盤の強固な推理はこの前提によってもたらされている。

もっとも嘘でさえなければだます意図を持って発言することはできる。ある情報源がでたらめと知りながら「○○によれば△△である」と述べることは許されるといった具合だ。

このような「天使の文法」は難解で、謎を解こうとする読者にとっては手強いものとなるだろうが同時に正しく読み解けるなら真実を保証する心強い武器にもなるはずだ。

 

いよいよ奇書性の検証に移るが、いきなり結論めいたことを述べてしまうと本シリーズを奇書たらしめる物があるとするなら自己言及性だろう。

 

 

 

ここからはいよいよネタバレが入ってくるため未読の方はここで引き返すことを推奨します。

 

 

 

 

シリーズ一作目の「終末少女」では序盤からミステリ観が話題に上っている。正確な引用ができないので要点をまとめると「ミステリでは謎を解き明かせるように手がかりを配置しなければならないが同時に謎を解かれてしまわないようにする必要もある」となる。

 

前半だけならフェアさに関する常識といえるし、後半も目新しくは見えないが手がかりの配置をジレンマとして提示しているのは割と珍しいのではないかと思う。視点が実作者よりになっている。

 

このようなジレンマを語り手の誰かに自分を理解してほしいが誰にも理解されてはいけないというアンビバレントな気持ちに重ね合わせることで、アクロイド殺しは他者からの理解を希求する切実な試みを描いた青春小説に生まれ変わった。

 

視点人物が書いた手記から手がかりを拾い上げた探偵は、文中に隠された手がかりを数えたてるが古野氏によれば実際にはそれ以上の数の伏線が埋め込まれているらしく、手記を通じたコミュニケーションも決して完全ではないことが窺えるのも面白い。

個人の好みを言えばこの作品が一番好みだった。

余談かもしれないが滅びつつある地球でわずかな猶予を与えられた小さな島が舞台になっている点も評価が高い。

 

 

これは「終末少女」に限らないが登場人物の名前に数字や曜日などにちなんだ法則性があることは登場人物の非自律的な性格を表しているように思える。彼女たちはキャラを付与されながらも本質的には論理ゲームの駒にすぎない。

終末少女の解答編では少女達は名前で呼ばれることをやめ、番号に還元されさえしているのでこの読みは妥当なはずだ。というか読みと言うほどのことではない。

 

 

続く「征服少女」ではミステリが禁じられた世界―天国―が描かれる。「何故天国でミステリが禁じられているのか」、これもまた解くべき謎なのだがその回答が明示されることはない。

天国は「最後の頁が書かれた書物」にも例えられる停滞した世界であり、停滞したまま終わりへとゆるやかに進んでいる。その上、社会を維持するために家畜化された人間から意思を奪って労働力として使用するなど本来の天国とはほど遠い有り様だ。

 

そんな状況に不満を持ち行動を起こす者がいても可視化されない、自由が抑圧されたいわゆるディストピア的な状況だが、そこを飛び出し地球へと向かった巨大戦艦バシリカにて事件は起こる。

 

本作での自己言及的な要素は管理社会との対比の中で描かれている。

家畜化された人間を木偶と呼び、その正体を知りもせずに使う天使達はいわば与えられた物語を生きている状況だ。一方で推理とはちりばめられた情報を元に能動的に物語を発見する行為だ。

 

推理のこのような側面を象徴するかのように見えるのは、前作の探偵役の初(うい)によって天国に持ち込まれた手記(終末少女)だ。この手記には問題編しかなく、最後のページが未だ書かれていない。

しかし、推理小説の解決編は、与えられなくとも読者が「自らの手で」書くことができる物語だ。一見不完全な手記が天国で執拗に隠されていたことはミステリの危険性を表していると言っていいだろう。

 

征服少女では犯人が描いた構図と探偵が解き明かす構図の二つの物語を巡る対決が見られるが、オリエント急行の図式を採用することで与えられた物語と自ら生み出した物語の対比が鮮やかになっている。

 

 

侵略少女だが、こちらは作者によって奇書と呼ばれているがこれまでのシリーズのようにわかりやすい自己言及は見られない。

ただし、作者のデビュー作である「天帝のはしたなき果実」との些細な符合のようなものは見いだせるのでそこから話を進めてみたい。この小説のタイトルが「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない。」という中井英夫(虚無への供物の作者)の言葉から採られているのは有名だが、侵略少女でも天への捧げ物が行われている。

 

少女達が天国へと(彼女らの意向を無視する形で)送り込まれているのだ。それは数十年にもわたって繰り返し行われているのだが、にもかかわらず天国は堅く門を閉ざし少女達を拒み続ける。キリストの受難を忠実になぞって(なぞらされて)まで天国を目指す少女は残酷にも殺され続けてしまい、そのような死を逃れ天国へと歩みを進めても目標との距離は一定に保たれ続ける。

 

比喩的とはいえ神に捧げる小説を書いていた作者がこのような天国との断絶を書くのは何故だろうか。そしてこの三部作を通してほとんど登場することのなかった天国がシリーズの名前に冠されているのは何故か、たとえば「天使三部作」ではいけなかったのだろうか。

この疑問は「天国三部作」での神の扱いと密接に結びついているように思われる。

 

推理小説において探偵や作者は真実を造り上げるその権能から神にも例えられるがこの作品群での神は絶対的存在ながらも事件にはほとんど関わらない。

唯一征服少女でのみ姿を見せ終盤に活躍するが、それは混沌とした状況を収めるための介入であり、基本的には傍観者であることを望んでいた。更に言えばその神は造物主ではなく彼女(?)から力を受け継いだ二代目の神である。

 

私はキリスト教には疎いのだがキリスト教の神に代替わりという概念はそぐわない。そうした概念を肯定する立場は、あったとしてもかなり異端的なものだろう。真面目なキリスト教者が見れば怒り出しそうな設定は作中世界を「作り手にもコントロールしきれない世界」にするためだったと私は考えている。

 

全知全能で唯一の真実を指し示すことのできる神が後退した(関与できない)世界でなお真実を探る推理とは創意工夫を伴う人間の営みである。テレパシーを使えて嘘をつけない天使達を中心に据えながらミステリを試みるこの三部作は、天国(ミステリが息絶えた世界)から出発してミステリを再建しようとする凄まじい労作でもあるのだ*3

 

 

以下は余談だ。

本シリーズでは推理のみならず人間が作り出した建造物や文化が度々称揚されている。もっとも人間の行いの負の側面から目を背けているわけではなく、征服少女ではアウシュビッツ、侵略少女では拡大自殺などの人間の愚行に触れられている。これらは笠井潔の大量死の理論を踏まえているものとも考えられる。

 

侵略少女では初が人間と同化していたことが明らかになるがこれもシリーズの哲学を補強するためのものかもしれない。

 

本シリーズでは奇書には付きものの真相の複数化は見られない。おそらくここに古野の考えが強く反映されているはずだ。解決編で拾われることがなかった手がかりが複数あることも合わせて考えると作中で示された経路と異なる経路で真相に到達することもできるのではないか。

だとすれば読者にもまた与えられた物語でない自分だけの物語を創造する楽しみが待っている。

*1:奇書の筆頭とも言える虚無への供物がギリギリまでミステリとしての面白さを高いレベルで実現していたのでややこしい

*2:創造主、全能者など複数の呼称があったはずだが、一番わかりやすく言えば神だろう

*3:今回はかなり悔いが残るというか力不足を感じた記事になってしまった