はぐれ者の単騎特攻

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ジオウOQで学ぶディケイド完結編

白倉伸一郎への評価はいかにして変化したのか(ざっくり)

今でこそ押しも押されもせぬ平成ライダーの立役者としての評価が固まりつつある白倉信一郎だが、十年以上前の特撮ファンダム(特に2ちゃんねる周り)を知っている人ならば現状に隔世の感を覚えるだろう。

 

かつての白倉Pは「キャラクターへの愛がない」、「整合性を放棄している」、「勧善懲悪を否定している」、「ビッグマウスが嫌(インタビューが信用ならない)」などと多様な批判を浴びていた(今でも完全になくなったわけではない)。

こうした悪評が形成されるには長い経緯があり、一つの要因を取り上げて説明しきることは難しい。

たとえば、白倉Pの個人ブログへの凸を引き起こすなど非常に大きなトピックだった響鬼をめぐるスタッフ変更騒動(私自身はリアルタイムで見ていない)も、時が流れるに従って沈静化したが、その動きと氏への批判の減少は必ずしもリンクしていない。

 

とはいえ大きな出来事を知っておくことは決して無駄ではない。もう一つの重要な騒動であるディケイドの締め括り方についてもふれておこう。

 

こちらは個人的な実感としても大きかったように思う。最終回での「嘘予告」、スカイライダー爆殺というショッキングな映像から始まる完結編、さらに再放送で施された変更などでネットは荒れに荒れた*1*2

BPO審議にまで至ったのだから「叩いてもいい雰囲気」を形成するには充分だっただろう。

 

そんなこんなで一時のインターネットは白倉伸一郎(と井上敏樹)に厳しい空間だったのだが、徐々に批判も和らぎ長年にわたって第一線で活躍していることを認める人も増えてきた。とはいえ叩いてもいい雰囲気を払拭する起爆剤には欠けていた*3。風潮に敏感な層を味方につけるに至ったのはなんといってもジオウOQだろう。

 

仮面ライダーディケイド完結編」と「仮面ライダージオウ over quartzer」、白倉Pを巡る言説の中である意味対極的な位置を占めている二作品が実は似た構造を持っていることについてこの記事では説明したい。

 

「シリーズ総括作品の構造に対する自己言及」

 

まずはディケイドとジオウがどのような役割を背負っていたのか整理する。

 

ディケイド

昭和ライダーと異なりそれぞれ接点を持たなかった平成ライダー(例外を見つけることは可能だがここでは些末なことと思う)を共演させる土台作りと忘れられつつある過去のライダーの再活性化=融合を進める9つの世界を救うこと。

「忘れられつつある」のは誰によってかと言えば当然視聴者だ。

ディケイドが破壊すべき世界は視聴者との間で存在するものと言ってもいい。

 

ジオウ

平成が終わりを告げるにあたって平成ライダーの歴史を固定化し次世代への橋渡しを行う。そしていつの間にか生まれていた「平成ライダー」という概念に改めて形を与える。

ジオウOQでアマゾンズやネオライダー、RX、ファイナルステージでthe firstというマージナルな”平成ライダー”を出したのはこれらの役割と無縁ではないだろう。

 

両作品の本編はこの役割に概ね忠実に則って進んでいった*4。ディケイドは9つの世界をめぐり過去のライダーの印象を更新し、ジオウはアナザーライダーを倒し平成ライダーの歴史を継承する。

 

二作品が初めからメタ的な役割を受け持って生まれ、役割を遂行してきた存在ということを念頭にディケイド完結編とジオウOQの話を比較してみよう。

 

あまりに無法な使われ方をするファイナルフォームライド、乱舞するサイドバッシャーとギガントのミサイルなどによって鮮烈な印象を与える完結編の前半パート、まずこれをドライブ編の相似と言ってしまおう。

その心は役割の再提示だ。

 

世界の破壊者として他のライダーをカードに変えることで、「全てのライダーを記憶してもらう」本旨が改めて描写されている。なぜ倒されたライダーがカードになるのか説明はないし、直感的にも分かりにくいのだがカードが記憶を呼び覚ますきっかけになるのは理解しやすいのではないか。

ドライブ編も「歴史改編を防ぎ、過去の平成ライダーから歴史と力を継承する」「歴史を継承するとオリジナルのライダーからは記憶が失われる」事などを改めて描写している。勿論限界はあるにせよ、テレビシリーズの視聴を前提とせず劇場版単体でも作品として成立させるための配慮がここから見える。

 

ジオウOQの前半といえばわやくちゃなようで後半への導線をしっかり引くクレバーさだが、今回完結編を見直すとこちらも案外丁寧だった。イカデビルを出すためにイカとビールを出すこの繊細な手つきと言ったら!

 

光写真館に現れた海東の「あいつら(士とユウスケ)のことなんか僕はとっくに忘れたよ」という台詞で早くもテーマである記憶に触れているとは見直すまで気づかずにいた。

海東の心理からすれば彼が士を忘れるわけはなくて、実際士が死んだときには一番に動揺していたしこの発言は嘘もいいところなんだけど、ただ、言葉だけに着目したとき、(すでにWによって現行の座を追われた)ディケイド自体にも忘却の危機が迫っていると示唆しているのだと考えることはできるのではないか。

 

その後にもタックルを通して「ディケイドが誰からも向き合われないで消えていくものの居場所になる」という話もしていて、まるでオーマジオウを先取りしているかのようだった。

 

次に後半の展開の共通点も確認しよう。

 

ジオウOQでは、ソウゴは自らが替え玉に過ぎなかったという衝撃の事実を知り失意の底に沈んでしまう。しかし木梨猛や剛の言葉を聞き、過去の自分を見つめ直すことで自分自身のオリジンを確認しオーマフォームへと変身した。最後にはクォーツァーを打倒してクジゴジ堂の仲間と「本に書いてない未来」へと進んでいく。

 

一方ディケイド完結編では、キバーラに倒された門矢士が消滅してしまう。突然現れて消滅したライダーの復活を告げる紅渡にディケイドはどうなるのかと夏海が尋ねると「ディケイドに物語はありません」と返されてしまう。それでも諦めなかった夏海が写真に写った士を見つけることで彼は復活し、MOVIE大戦2010を経て光写真館の面々は新しい旅へ一歩踏み出す。

 

どう、結構似てない?

 

一人歩きしている「ディケイドに物語はありません」だが、二つの作品を並べてみるとこの言葉があくまでも役割の話に過ぎないとよく分かる。一種定型句として使っていたのかもしれないが本当に勘違いしている人もいそう。ディケイドの物語は与えられたものではなく視聴者との間から立ち現れてくるものだ(桃井タロウがはるかの漫画で一時的に復活したのも記憶でヒーローが甦る話)。

 

ソウゴがオーマジオウから意志を継承することで「平成20番目のライダー」になったように士も一度消滅することでキャラクターとして自立した。「ジオウ」などでの活躍の土台がここで築かれたと言っても過言ではない。MOVIE大戦もディケイドに寄せて考えるならば新しい旅の初めの一歩と捉えられる。

 

どれだけ歪に見えようとも自分たちが積み重ねてきた「今」を否定させない。ジオウOQが放つメッセージの力強さはこの言葉が「ジオウ」自体の肯定であり、「平成ライダー」の肯定であり、ひいてはこの作品を見る(平成を生きた)視聴者の人生の肯定であることに由来している。ディケイド完結編がその域に達していたかと問われれば難しいのだが、それでもこの作品があったからこそその後の平成ライダーの展開があるわけで僕としては「やっぱり好きだなあ」と思ってしまうのだ。

おまけ:包絡線

ここから先はまた少し違う話なんだけど単独で記事を書くほどではないのでここに置いておく。

 

ディケイドの物語やジオウの歴史を比喩的に考えるにあたって包絡線の概念が結構便利だと感じていて。数学的に厳密な説明をすることは到底できないけれど「定数を変えることで得られるぎっしり詰まった曲線のグループ全てに接する線」くらいでそこまで大きく間違っていないと思う。もう少しわかりやすく「少しずつずれて並んでいる曲線のグループ全てに触れている線」と書いてもいいかもしれない。多分Wikipediaで見られるgifを見た方が早い。

 

各作品から1エピソード選んでそれを繋ぎ会わせたものがディケイドの物語だし、各作品の年表から本編に該当するところだけ抜き出して並べたのがジオウ世界の歴史だと思う。この考えの便利なところは年表の矛盾をスルーできる点で、わかりやすいところでは鎧武以外の年表では2014年にヘルヘイムの森に触れられていない点だが、これも鎧武世界の2014年と(例えば)ビルド世界の2014年は別物となるので矛盾は解消される。

 

 

 

 

以前にもジオウOQの記事を書いているのでここまで読んでくださった方は是非こちらも合わせて

P.A.R.T.Y.のOver Quartzerと平成ライダーの文脈への理解度は異常 - はぐれ者の単騎特攻

 

*1:無知によるものもあるだろうがディケイドを打ち切り作品であるかのように吹聴する人も多く本当に辟易とさせられた

*2:ふざけんな

*3:アマゾンズで一つ潮目が変わったような印象はある

*4:ディケイドは後半やや迷走気味だったが會川先生の降板の影響は絶対にあるだろうし、本来予定されていたディケイドの終わり方がどうだったのかは気になる