はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

作品を倫理的にジャッジしてしまうことについて【短文】

今回はブログというよりTwitterのスレッド、メモ帳のような気持ちでごく気楽にかいてみたい。というか本気で向き合ったら気がおかしくなる。

 

・フィクションで反倫理的な行為を描いてはいけないことはないし、倫理観自体が時代とともに移り変わっていくものだ。反社会的な行為をほぼ確実に含むミステリや任侠ものも受け入れられることが多いのだから、倫理的かというよりも快・不快の話になる。

 

・作品について「倫理」という言葉を用いて語っている場合ほとんどは瑕疵について語られている。褒める場合には具体的な価値観や先進性について言及されている。

印象による部分も大きいがサジェストを見る限りこうした傾向はあると思う。この非対称性は一体何なのだろうか。

 

・作中で描かれた行為が許容しがたいものでも行為者にとっては必要な行いだったと認められるかもしれない。情状酌量においては描写をひとつ見落とすだけで印象が変わってくることもある。

 

・倫理観はそれぞれに違って相互の完全な理解は難しいだろうが、作品を読むにあたっては妥当な解釈の幅はある程度決まっているのではないか*1。解釈は自由だが自由な解釈に説得力が伴うかは別の話というべきか。

 

・制作者の中に作品を通して伝えたいメッセージが存在すると仮定したときメッセージ自体がストレートに言及されることはまずないので反倫理的な主張が直接にはされていないと言っても反論としては弱いのではないか。

たとえば今年のエイプリルフールに起こった東京トガリの炎上は無理筋だったことにはならないだろう。

一方で反倫理的なメッセージが含まれているとするのは強い主張なのでそれなりの根拠は必要。

 

 

・僕はフィクションに対してなるべく作品のよさを引き出せるような評価軸を都度用意したいと考えている(そしてこの考えは明らかに京極夏彦の影響下にある)んだけど倫理的な不快感は半自動的にわいてきてしまうのでとても厄介。

 

・作品の問題を解消するためにたどり着いた解釈がたとえ作品と矛盾を来さないものであっても直接の言及がない部分に多くをよったものならば他者と共有するのは難しい。

 

・制作者との信頼関係が崩れたからこそ倫理観が気になり、倫理観が気になるからこそ信頼関係が崩れる。

 

・倫理的な瑕疵が取りざたされる時点で作品の自律性は崩れているのかもしれない。前面に現れる製作陣について意見があるなら作品に批評を加えることの意味も変わらざるを得ない。

*1:デリダパイドロスを例に行ったような脱構築は非常に高度なものでひとまず無視してしまって構わない