はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

感想:薔薇の女 笠井潔

最近なかなか趣味のための時間をとれておらず、ニチアサもセイバーだけはどうにか見ていてトロプリもゼンカイも溜め込んでるしどこかで巻き返さないとダメになってしまうぞという危機感がある。付け加えるならシンカリオンZも大分たまってるけど
そんな中でも読書量はそこまで減っていない。なのでこれからしばらくは本の感想がメイン、になっていくかと思います。

今回感想を書くのは笠井潔の「薔薇の女」です。
真相には触れませんがあらすじよりは踏み込んで語るつもりです。


さて、あらすじは引用で済ませてしまおう。

犯人は①火曜日の深更に②一人暮らしの娘を襲う③絹紐で絞殺した後④屍体の一部を切断のうえ持ち去る。現場に⑤赤い薔薇を撒き⑥〈アンドロギュノス〉と血の署名を残す……。酷似する犯行状況にひきかえ、被害者間にいささかの接点も見いだせず苦悩する捜査当局を後目に、難なくミッシングリンクを拾い上げる矢吹駆。今を去ること十数年の切り裂き魔事件に遡及して語られる真相とは?

創元推理文庫版「薔薇の女」裏表紙より

本作の魅力

カケルー語り手を務めるナディアに倣ってこのように呼ぼうーは安楽椅子探偵ではないが、事件発生時の状況を聞くだけで事件の「不自然な点」を列挙してしまう。アンデッドガールマーダーファルスシリーズでも見られたが、この推理の進め方はすでに解決編のカタルシスを先取りしているようでわくわくする。


今回カケルは必要のないアリバイトリックは何故作られたのかを徹底して考察することで真相に到達する。様々な可能性を検討し真相に迫るこのパートは知的遊戯たるミステリの醍醐味だろう。


一方で作品にちりばめられたモチーフも楽しい。
人類の原初の、完璧な姿として想定されてきたアンドロギュノス(両性具有人)が持つとされた美しさと、作中後半に姿を現すアンドロギュノスのおぞましさのギャップなんて江戸川乱歩から続く(エドガーアランポーとした方がいいのかもしれない)怪奇小説としての探偵小説が好きな人なら大好きなんじゃないかな。

こうしたモチーフの魅力はサマー・アポカリプスにて顕著に現れている。カタリ派の秘宝、黙示録の四人の騎士、ナチスドイツの謎の作戦……これらの謎が明かされるたびに殺人事件が違った顔をのぞかせるスリリングさは圧倒的だ。

矢吹駆シリーズの魅力

作品を超えて問われる主題

ここまで地続きで展開されている小説のシリーズを私は他に知らない。語り手であるナディアがカケルに寄せる思いが深まる様子などは珍しくもないだろう。しかし、一作ごとに退場していく犯罪者や苦悩する人々のうめきの余韻が作品を超えいつまでも響いている、というのはどうだろう。普通の小説では、思わぬ人物についての言及には心地よい驚きが伴うが、本シリーズにおいてはむしろ痛みや苦みが伴っている。何が語られているかを理解するためにも(ネタバレを避ける意味でも)、タイトルだけでは分かりづらいが順番通りに読むことに深い意義がある。

薔薇の女の前には是非バイバイ、エンジェルとサマー・アポカリプスを。

少し話がそれるようだが著者の笠井潔は、「テロルの現象学」などの評論によってもつとに知られる。そのテロルの現象学は左翼運動の挫折がもたらした衝撃を受け止め、理解するために書かれたらしい。
連合赤軍 - Wikipedia

その問題意識を共有しているために、矢吹駆シリーズはある意味ではとっつきにくい、しかし歯ごたえのあるシリーズになっているのだろう。独特の構成は崇高な観念が暴力を生み出すパラドクスに挑むからこそ。一本の小説で解決される殺人はあくまでも法で裁けるものだ。カケルがシリーズを通して真に暴こうとしているのはその先の深淵である。

実はそうした観点から見ると本作が前二作ほどの迫力を有していないように見えるのは言い添えておかなければいけない。ごく簡単に述べるなら謎の解明とテーマの掘り下げの間の有機的な連関が弱い。

現象学的本質直観という推理法

探偵役としての矢吹駆に独自の存在感を与えているのが「現象学的本質直観」という推理法である。
カケルによれば、観察と思索に正しい方向付けを与えるものが本質直観であり、フィクションに出てくる名探偵達もそうとは知らずに用いているのだという。

堅固なダイヤモンドに一点のみ存在するウィークポイントのような「本質」を足がかりに華麗に真相を披露するカケルはその後隆盛を迎える多重解決に先手を打ってカウンターパンチを放っているかのようだ。
ここまででも十分に興味深いスタイルとして確立しているように見えるこの推理法、次作の哲学者の密室ではとても効果的に用いられるとのことなので楽しみにしている。

哲学者の密室

次はいよいよ大著「哲学者の密室」に挑むことになる。おそらく次回でも繰り返し書くことになるんだけど、僕は昔一度この本に挑戦しようと思ったことがあった。そのときは過去作も読んでから手に取らないといけないと知ったために気後れしてしまった。それから10年ほどたってとうとう準備が整ったというのはかなり感慨深い物があるのです。