はぐれ者の単騎特攻

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飛鳥部勝則 冬のスフィンクスから黒と愛

以前飛鳥部勝則の初期作品を読んでこのような記事を書いた。

tyudo-n.hatenablog.com

それから1年近くたちついにすべての長編を読み終えたので冬のスフィンクス以後の作品を中心に作品の感想や氏の作品の作風について語ってみる次第だ。

さて、上掲の記事で私は総括として

 

ミステリを模倣しながらもそこから逃れてしまうような奇妙なねじれが魅力的だと感じた

 

と書いている。現在もそのように思わないではないのだが今はこのように表現することはないだろう。「ミステリ(虚構)と現実が互いを飲み込もうとする運動」。これこそが氏の作品の特徴なのだと今は思う。

 

そんなことを考えながらデビュー作である殉教カテリナ車輪をめくっていると次のような台詞に行き当たった。

現代の超名探偵はレクター博士のような形でしか存在し得ないような気がします。サイコ・キラーにしてシャーロック・ホームズ。そういう意味でもこの二十世紀末は、一時に比べ名探偵の存在を許すようになってきている。現実が名探偵を取り込んできているのです。

 

この台詞が象徴するように首切りや密室といった非日常的な道具立てが日常を侵食するのみならず現実もまた名探偵を初めとする虚構を飲み込みにかかる。では作中における「現実」とは一体何なのだろうか。

 

ごくごく大雑把なレベルではそれは読者である私達が身近に感じられる世界のあり方と表現してしまってかまわないだろう。もう少し具体的な注目すべき点としては、作中作の外側でしばしば顔を覗かせる飛鳥部自身を彷彿とさせる作家の存在も見逃せないがここではひとまず置いておく。代わりに取り上げたいのは「警察」だ。

 

私見では警察は飛鳥部作品における現実の象徴の1つだ。というのも警察は作品によって異なる現実と虚構のグラデーションを象徴するように実に多様な顔を見せてくれるからだ。

 

以下ネタバレがあります。

 

たとえば警察による解決が読者にとっては不完全でも世間から受け入れられる殉教カテリナ車輪とバベル崩壊は現実に軸足を置いていたと言える。

ところが砂漠の薔薇では刑事を名乗る槍なる人物が現れ様々な推理を披露するが、実は彼の推理は偽の証拠に基づいたでっち上げで彼自身も刑事を詐称する一般人だったという真相が明かされる。そして砂漠の薔薇は語り手の女子高生を通じて暴力が横行する荒んだ日常が描かれているが、それはもはや我々が慣れ親しんでいる日常とは異なるものになってしまっている。

 

 

以下各作品の感想となる。現在これらの本が手元にないため細かな事実誤認もあろうかと思うので気づいたことがあれば指摘していただけるとありがたい。

 

冬のスフィンクス

眠りに落ちることで絵のなかに入り込めるようになった主人公がそこで奇怪な殺人事件に遭遇する。当然ながら殺人事件が起こる絵の中が虚構であり、主人公が日常を送る側が現実である。しかしながら事件が起こった理由は主人公の行動にあり、その意味では虚構こそが現実に侵食されているとも表現できるだろう。

 

 

ヴェロニカの鍵

飛鳥部作品らしい芸術を巡るミステリ。飛鳥部作品では魅力的なヒロインが登場するためよくボーイミーツガールの文脈で語られているが堕天使拷問刑や鏡陥穽、本作を読むと男同士の友情の描写にも定評があってしかるべきと思う。特に今作の久我と郷寺の若かりし日の思い出は世間からすれば美しくないからこそ私の目にはとても美しく写ってしまった。

ミステリと現実のせめぎ合いとしては初期作品に近い印象で小康状態、あるいは均衡が崩れる直前の静謐といったところだろうか。

 

 

バラバの方を

絵から飛び出したかのような凄惨な死体。それはまさしく虚構による現実への侵攻だ。悪夢的な光景に魅せられた主人公は関係者に話を聞いて回るが次第に狂気の深みへとはまり込んでしまう。

バラバの方をでの警察は事情聴取を行う程度で序盤は多少の存在感を見せるが、終盤においては消滅していると言ってもかまわないような存在だ。

単にミステリとしてみればこの作品の謎解きは割とシンプルなので気づけなかったのが結構悔しかったりもする。

 

 

ラミア虐殺

いつ抜き身のナイフに変わるか分からないイカレたキャラクターがわんさか登場するのは飛鳥部作品の常とも言えるが流石にこれはやり過ぎだろう(褒めている)。

死人が出てなお警察への通報を行わずに思い思いに過ごす館の住人とそれをよそに淡々と繰り返される死と失踪。THE・異常なこの作品では人間が文字通りの異形へと変貌し血みどろの戦いを繰り広げるすさまじい展開が待ち受けており、ここでは虚構が現実を追い抜いてしまっている。

 

 

レオナルドの沈黙

オーソドックスなミステリだがそれ故に生じるこれまでの作品とのギャップがこの作品を異様なものにしている。とは言っても人の死を予言する怪しげな男などは外連味たっぷりなのだが。……再度の「とは言っても」だが、犯人が警察によって逮捕される飛鳥部作品随一のまともさは前作の反動をもろに受けているようでもあり面白い。

 

 

誰のための綾織

女子高生によるいじめや監禁など砂漠の薔薇を彷彿とさせる部分が多い作品で、こちらの女子高生もかなり頭のネジが外れている。そこが魅力的だったりするのだが。

アリバイを構成する要素として新潟中越地震が取り込まれている。これもある意味で現実と虚構の融合と言えるだろう。

 

 

鏡陥穽

氏の唯一のホラー長編で描かれる恐怖は「鏡から出てきた分身」だ。ミステリと現実、二つの世界の相克を描いてきた氏にとって鏡写しの分身との戦いは必然ですらあるだろう。鏡が複製をうみ、複製が更なる複製を呼ぶ、複製は複製と混じり合い奇怪なクリーチャーが読者の前に顕現する。

裏返しが裏返しになったようなこの作品では警察の役割も簡単には割り切れないものになっている。警官の一人である小作は麻薬組織と裏でつながっているが一方で主人公の前に幾度も姿を現す怪しげな久遠も実は刑事であることが明らかになり終盤では主人公を守るために獅子奮迅の活躍を見せる。

 

個人的には一番盛り上がるのが久遠の過去編で、久遠の父親である青史は飛鳥部作品随一の狂人として末永く記憶されるだろう。

 

 

堕天使拷問刑

界隈ではこの作品を最高傑作に推す声が大きいらしいがそれも大いに頷ける傑作だ。今作の舞台では巡査と呼ばれる自警団のような集団が伝統的に地域の治安維持を行っており、法よりも町の論理が優先される異様な空間を作り上げている。警察も介入しないわけではないのだが、それは最小限度にとどまっている。

 

極めて暴力的に執り行われる憑き物落とし(ツキモノハギ)をはじめ異様な風習のパッチワークのようなこの町に叔母に引き取られる形でやってきた主人公は町の論理に抵抗するが完全には抗しきれず部分的に取り込まれてしまう。それを象徴するような中盤のとある場面は鳥肌ものだ。

 

悪魔の気配が横溢する町が迎えるカタストロフと意外なほどに静かな結末が深い余韻を生んでいる。

ところで不良の二人組グレンとガンはグレンラガンパロなのだろうか。

 

 

黒と愛

現時点での氏の最後の長編作品は、嵐によって分断された古城で殺人事件がおき、警察は到達できないなか探偵が動くという(一見すると)古典的なクローズドサークル

しかしながら読み進めていくとある作品とのリンクも見えてきてやはり一筋縄では行かない現実から遊離した作品になっている。

 

死体消失のトリックなど普通なら読者を怒らせてしまう衝撃的なものなのに作品が積み重ねたエネルギーで納得させられてしまう。誰のための綾織で語られた「推理小説に禁じ手などあるのだろうか。おそらく、ありはしない。面白ければそれでいいのだ」を実践しているかのようだ。

 

余談ながらこの小説は仮面ライダー小説でもある。小野寺正太郎、緑川ルリ子と来れば鋏を持ち豹のように口が裂けた女にハサミジャガーの影を見ることも許されるだろう。

終盤に登場する改造人間軍団のほとんどはショッカー怪人と共通のモチーフなのだがこれはショッカー怪人が多すぎるだけかも知れない。

 

 

 

ネタバレまみれのこの文章を読む人は正直ほとんどいないだろうがそれでもたった一人でも飛鳥部勝則に触れる人が増えてほしいと願う次第だ。