はぐれ者の単騎特攻

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終わりから始まる物語「仮面ライダーセイバー」 タッセルは敵か味方か

セイバーの一番の特徴は何か、答えは様々あるはずです。「本の力で変身する」、「仮面ライダー史上初のEDダンス」令和ライダーを紹介するときにはこのあたりが取り上げられるでしょう。しかし今私が大注目する特徴は「タッセルの存在」。

 

真っ赤な帽子に緑の髪、そしてあの異様なハイテンション。見慣れてきたけど凄い。似たような語り部ポジションにキャラクターとして過去にはウォズがいたが、彼の場合は白ウォズ登場以降は劇中の一人物という要素が大きくなった。タッセルはユーリ以外の登場人物との会話が極端に少ないので未だにどこか超然とした印象を与える。彼が本格的に参入したときに敵か味方か判じかねる(この記事を書き始めたときには彼がワンダーワールドの主語を任されていることは明らかになってなかったんですよね)

 

「完」→「物語の始まり」

セイバーが終わりから始まる物語であることは、OPで「完」と書かれた札をひっくり返し「物語の始まり」にする演出によって示唆されている。ここを意識しながら見ると「セイバー」では終わりを乗り越えることが重要であることがわかる。

たとえばソードオブロゴスの剣士は世代交代をし、剣を受け継いでいる。この継承は単にゴーストと同じ座組みだから「思いを繋」いでいるのではなく、一人の剣士の終わりが新たな剣士の巣立ちの時でもあることを意味しているのではないか。

アンチテーゼとしての敵

敵であるメギドは正反対の価値観を象徴していると思われる。

メギドは先代の水の剣士とも因縁を持つズオスや、尾上と異なり衰えを知らぬデザストのように終わりを知らない。

 

剣士列伝でデザストの口から発せられる「強さの果て」という言葉も「強さに果てがあったらそれ以上強くなれないじゃん」と剣斬に否定されていることから正義と悪の対立点であると予想している。

インタビューによればデザストらはアカシックレコードを目指しているようだが、この世のすべてが書き記されているデータベースには発展の余地がない。強さの果てと重なる。

 

映画短編での敵、無銘剣虚無の使い手であるバハトは人間の歴史における争いの果てしなさを理由に全てを無に還そうとする。勿論このような「終わり」は後に何も残さないし新たな始まりも導かれない。

継承とは終わりを次へと引き継ぐことであり、文章がピリオドを受けることで前に進めるようにポジティブな意味も持つ。

終わりを持たない物も破滅的な終わりをもたらす者もセイバーの味方にはなれないといえるだろう。

物語の構成

こうした考え方は物語の構成にも生かされているのではないか。

16話以降、団結したライダーが仲たがいしてしまう展開には批判の声も多く見られた。しかし、これもカリバー討伐という一つの終わりが次の物語を産み出すが故のぎこちなさだとしたらどうだろう。

このように小刻みに物語の完結を挟むことで、「完」→「物語の始まり」の構成を実行しようとしているのではないか。

意図しているかどうかは分からないが、物語の区切りが定期的にあることで近年のライダーのテレビ版最終回の据わりの悪さを克服できるかもしれない。

最終回で決着ですと言われてもこの後黒の菩提樹も復活のロイミュード軍団も我々は忘れていたも控えているわけだから、完結というよりは一つの大きな区切りと捉えたいけど来週からは現行作品じゃなくなるのもまた事実で…………と理屈をこねたくなる気持ちに決着がつくなら喜ばしい。

 

タッセル

そうしたことを踏まえてタッセルの価値観がどうなのか、特に後継者がいるでもなく一人きりで過ごす彼はメギド側に近いようでもある。メギド三人衆のように人間を捨てたユーリは剣から剣士に戻ることで強化を遂げた。だから味方側であることに説得力がある。

 

タッセルは英語で布の終わりに取り付けられる装飾を意味するそうだ。このままではなんのこっちゃか分からないので、やや牽強付会かもしれないが、ここではタッセルとは栞につけられる装飾ではないかと考える。しおりは本の途中に挟み込まれる物だ。バハトのような究極の終わりにタッセルは存在できない。

 

ワンダーワールドの守護者としての役割も踏まえると「物語の途中なのでタッセルが登場する」ではなくて「タッセルが登場することで物語の続きが生まれる」といった大胆な因果の逆転も起こりえそうだ。

えー、要するにタッセルはエボルトではないといいなっちゅーことです。