はぐれ者の単騎特攻

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匣の中の失楽

先日読んだミステリ小説、匣の中の失楽を紹介する。かなりの長編であることと奇抜な内容から全ての人にお勧めできる小説ではないが普通のミステリに飽きてしまった人には強くお勧めしたい。

 

匣の中の失楽」はミステリ、それも衒学ミステリに属する作品だ。別の分類をするならドグラ・マグラ、虚無への供物、黒死館殺人事件三大奇書に連なる第四の奇書になる。

衒学ミステリとは様々なジャンルの知識がちりばめられたミステリほどに認識しておけばそこまで齟齬はないと思う。
 
三大奇書はアンチミステリの傑作をまとめたものでミステリの枠組みや前提を揺るがしてしまうような極端な展開が楽しめる。当然第四の奇書たる今作でも型破りな展開が楽しめた(といっても私の場合黒死館はかなり苦労してどうにか読み終えたという印象が強いのだが)。
 
この物語の主な登場人物は推理小説マニアの団体だ。「不連続線」に強いこだわりを持つ曳間や詩人志望の真沼、双子の兄弟であるナイルズとホランドはじめ10人近くで構成されている。
 
以下、ネタバレにならない程度に序盤の展開を説明したい。
 
 
「序章に代わる四つの光景」
霧の中をさまよう曳間、真沼を悩ませるデジャブ、囲碁の対局中に現れた不吉な予兆、ナイルズが取り掛かる実名小説「いかにして密室は作られたか」など今後の展開を占ううえで重要な要素がちりばめられている。
 
「第一章」
7月13日、「いかにして密室は作られたか」で第一の被害者になると宣言されていた曳間が倉野の部屋で死んでいるのが見つかる。現場の状況には犯人にとって不利益にすらなる数々の不自然な点があった。たとえば犯人は倉野が死体を発見するまで密室の中にこもっていた。たとえば犯人は自らの靴を見せつけるように玄関に置いていた。この事件に興味を抱いたメンバーは推理によって犯人を暴こうとするが――
 
※以下、作品の趣向や結末などに触れるためネタバレ注意
 
 
 
入れ子構造が本作の大きな特徴で、一つの章(序章除く)が終わるごとに以前の内容が「いかにして密室は作られたか」の一部であったと明らかになることで現実と架空が入れ替わっていく。つまり二章から見れば一章は作中作で、三章から見た二章(に内包された一章)もまた然りだ。奇数章と偶数章の二つの現実が交互に並ぶことで我々の認識を混乱させる。奇数章では大人しい青年として描かれる甲斐が偶数章では怒りっぽい醜男になるなど細かい点で違いを見せる二つの現実は胡蝶の夢のように我々を幻惑する。
 
作中作という虚構を内包することで始まった現実が虚構として一段上の現実に飲み込まれて行く展開。これを繰り返し見るうち、我々の現実もこのマトリョーシカの延長線上にあるような足元への不安を感じた。
 
衒学ミステリの魅力は抽象的な議論が現実の血生臭い事件と結び付く一種の飛躍にある。匣の中の失楽でもそれは大いに味わえる。様々な分野を専攻する大学生がそれぞれの専攻に基づく知識を披露し、それをもとに思いもよらない事件の解釈が次々と飛び出すのだ。
これらの推理は単に読者に驚きをもたらすだけではない。我々が持つ素朴な世界観を揺らがすことで認識の混乱に追い討ちをかけていく。
 
 
世界観を揺らがせるといえば登場人物を囚える観念も作品に奥行きを与えると同時に、作中世界を不安定にしている。
偶数章では生存している曳間によれば、不連続線を引く行為は他者との違いを見出す行為でもある(奇数章で受け売りの形で紹介されていたような気もしてきたので後日確認する)。精密な区分化が進む現代では人々とそれを取り巻く世界は不連続線によって分断され、孤独を深めていくと語った部分は夏目漱石の名著「吾輩は猫である」で語られた”結婚が減っていく訳”を想起させる。70年代の思想について知らないので何とも言えないがこれがオリジナルの予言ならばたいしたものだ。
 
 
本作がアンチミステリである理由は真実の価値が揺らいでいく点にあると私は考えている。そもそも曳間の死の謎を解き明かそうとする推理合戦が「犯行は単独犯によるものでなくてはならない」、「事件は連続殺人でなければならない」などの「十戒」を設けた遊戯性の強いものだ。さらに物語が進むにつれ、もうひとつの現実や作中作として虚構となった過去の記述を手がかりにして推理が行われるようになり、通常考えられる合理的な推理から離れてしまう(作中では心理的な推理と呼ばれることもある)。「これじゃいつまで経っても真相にたどり着けないじゃないか」と不安に思いながら読む人もいるだろう。しかし、彼らの姿は「彼女はあまりに怪しいから真犯人ではないだろう」「そろそろ第二の被害者が現れそうだ」などと読みを働かせながら推理小説や二時間サスペンスを楽しむ我々の姿とどこか似てはいないだろうか。こうした意味で本作は二重にメタフィクショナルなものになっている。
最後に提示される「真実」も積み上げられた推理に恥じないものとなっていて一読したら忘れられないはずだ。
 
 
その他の気になる部分として、三大奇書の名がすべて登場するリスペクト精神の強さも目を引いた。意地の悪い見方をすれば「作者の趣味が登場人物の口を借りて出てきすぎ」。だがマニア(オタクといっても構わないが)なんてこんなもの。むしろ偉大な先達をこれだけはっきりと意識しながら大作を書き上げた凄味に圧倒されてしまう。未だに「第五の奇書」が定まらないことも三大奇書に並ぶ試みがどれだけ難しいのかを証明している。
 
 
今までに言及してきた要素のみならず、人形や九星術など様々なモチーフが散りばめられているだけあって作品全体を見通そうとすると脳内に霧がかかったような気分になる。霧の中をさまよう曳間を冒頭に持ってきた作者がこの読後感を意図していたのなら恐ろしい。
 
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