はぐれ者の単騎特攻

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ミスターガラス ヒーローに仕掛ける憑き物落とし

京極夏彦いいよね……

京極夏彦のデビュー作、姑獲鳥の夏に連なる百鬼夜行シリーズの探偵役中禅寺秋彦は、摩訶不思議な事件を「憑き物落とし」で華麗に解体する。

「この世に不思議なことなど何もないのだよ」と語る彼によれば不思議とは人間の認識によって生まれるものだ。文化的な存在、物理的な非実在である憑き物も取りつかれたと主張する人にとっては紛れもなく存在する。
難事件を取り巻く謎も憑き物と同じ、適切な手順さえ踏めば認識の転回により解体されてしまうというわけだ。

なんでこんな話から始めたかって言うと私が京極夏彦大好きマンだから……というか、ミスター・ガラスがある意味では偶像としてのヒーローを破壊してしまったから。


日本書紀日本武尊ユングアーキタイプ論、「千の顔を持つ英雄」を例に出すまでもなく古来より英雄譚は人々の心を掴んできた。
21世紀に至ってもヒーローは洋の東西を問わず新たに誕生し続けている。ミスター・ガラスのシャマラン監督はそうした流れを明晰に捉えている(はず)。


本作は「アンブレイカブル」「スプリット」に連なる作品だ。シャマラン監督が三部作で繰り返し問うのは「超人は実在するのか、するとしたらどのような人物なのか」という問題だ。

題のミスター・ガラスとは生まれつき極端に骨がもろくこれまでに94度の骨折を経験したイライジャを指す。


映画の冒頭、アンブレイカブルでの覚醒後も密かにヒーローとして活動していたデヴィッドは、多重人格を持つ連続殺人鬼ケヴィンと対決する。


死力を尽くした戦いの最中に警察が現れ、デヴィッドとケヴィンは拘束されてしまう。デヴィッドは自分が人を救ったことを精神科医のステイプルに説明するもその過程で出た損害は彼の介入がなければ生まれなかったと言いくるめられてしまう。

ヒーローもヴィランも社会秩序からはみ出た者で危険度は何ら変わりないというわけだ。

その後、拘束された二人は精神病院に収容され、既に収容されていたイライジャと出会う。
3人を引き合わせたステイプルはカウンセリングを始める。

彼女は彼らの特殊能力を常識の範囲にとどまるものとして説明しようとする。
たとえばデヴィッドの「触れただけで他者の悪事を知れる能力」はマジシャンなどが持つ優れた観察能力を無意識に使っている結果として再解釈される。
ケヴィンに潜む恐るべき人格ビーストの鉄格子をも曲げる怪力は老朽化が進んだ鉄格子がもたらす勘違いとなってしまう。

“特別なヒーローなど存在しない。ただの人間がいるだけだ。”

己が何者か分からずに自信を喪失するデヴィッドとケヴィン。その一方でヒーローの存在を確信するイライジャはデヴィッドとケヴィンを竣工した高層ビル、オオサカタワーにて衝突させようともくろむ。

ケヴィンと共にタワーに向かい、破壊を止めてみせろとデヴィッドを挑発する。


ところで、この世界では損なわれた者が持つ強さが力の源泉となる。しかし、いかに強大な力を得てもトラウマを完全には克服できないことも示されている。

デヴィッドは幼い頃に溺れた経験から水に弱く、水に浸かると極端に力が落ちてしまう。
ケヴィンが多重人格を得たきっかけは母の虐待だ。彼はフルネームを呼ばれると母の叱責を思いだし、元の人格に強制的にスイッチしてしまう。


その頃、収容された3人に会おうとする家族らが合流する。

アンブレイカブルのどんでん返しの仕込み(イライジャの母親がイライジャにコミックを渡すシーンでどんでん返しに言及している)やイライジャの「コミックは現実を反映している」という信念からして現実をフィクションに重ねる見方は存在していたが今作ではそれがさらに強まっている。

コミックのテンプレが面会を求める家族らによって現実を読み解く指針として採用されるのだ。


独特の基準で動く人々も百鬼夜行シリーズらしいと言えばらしい。それはともかく超常能力を人間の技能の延長線上のものとして解体/再構築する様はマジで憑き物落とし。純粋にやってることを見れば虚構推理の方が近いけど(これも変わり種ミステリとしてオススメ)。


デヴィッドとケヴィンの再戦は施設の敷地内で実現する。大立回りの末にイライジャとケヴィンは死んでしまう。ただ一人、生き残ったデヴィッドも施設の職員に顔を水に押さえつけられてしまう。
今際の際、デヴィッドはステイプルの手を握り意外な真実を知る。実は彼女たちは超常者を消滅させようとする組織のメンバーだったのだ。

3人に完全な自己否定をさせることこそ叶わなかったが、彼らを秘密裏に殺し、組織の計画は成功した。


しかし、ヒーロー神話の解体は観客にとっても思わぬ形で実現することとなる。
超人を収めた施設の監視カメラの映像は家族によって拡散され、ヒーローとヴィランの存在が実証されたのだ。
映像は能力に目覚めた人々の心のよりどころになると示唆される。組織の活動は妨げられるであろう。

映像によってヒーローとは遠くにいるものではなく、すぐそばにいるかもしれない者となった。
「特別なヒーロー」はやはり解体されたのだ。


現実的には数本の映像でなにかが変わるとも思えないがだからこそ映画が訴えかける声が聞こえるようだった。