はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

P.A.R.T.Y.のOver Quartzerと平成ライダーの文脈への理解度は異常

2019年、一番クールだった映画は「仮面ライダージオウ Over Quartzer」(以下OQ)だ。
テレビでは収めきれなかったドライブ編を抱え込みつつジオウの総決算と平成ライダーの総決算をやり切り、しかもそれが空中分解するどころか奇跡的なレベルでかみ合っているだなんていったい何がどうなっているんだと私は映画館で感涙にむせび、帰り道でもスキップしそうになる足をなだめるのに苦労した。


てんこ盛りの自己言及で「平成ライダーとは何か」という命題に一つの答えを出しつつ高い娯楽性を実現したOQは確実に多くの人の心をつかみ(一部の人を心底呆れさせ、憤らせもしたが)主題歌のP.A.R.T.Y. ~ユニバース・フェスティバル~をDA.PUMPがテレビで披露するたびに「P.A.R.T.Y.」がツイッターのトレンドに並ぶという不思議な現象をも巻き起こした。
それもこれもP.A.R.T.Y.の歌詞がOQに合いすぎていたからである。


DA PUMP P.A.R.T.Y. ~ユニバース・フェスティバル~ 歌詞&動画視聴 - 歌ネット


ただし歌詞を一読して「なんて平成ライダーを理解した曲なのだろう」と思える人はファンの中でもそう多くはないだろう。なぜなら、この歌詞は個々の作品について語るのではなく、ジオウを語ると同時に「平成ライダーというコンテンツの道のり」を語る歌詞だからだ。


それはある意味、平成ライダーを知らなくとも順風満帆とは言い難い長寿コンテンツにどっぷり首まで浸かった人なら共感できる歌詞ということでもある。
とがった普遍性を一人でも多くの人と共有すべくすでに語られつくした部分も含めて検討していこう。

空っぽの星時代をゼロから始めよう

平成ライダー第一号、クウガの主題歌「仮面ライダークウガ!」は新しいヒーローを作り上げようという意気込みから始まった。そして9年後に放送された平成ライダー第十号、ディケイドの主題歌「Journey through the Decade」の歌いだしは「見上げる星それぞれの歴史が輝いて」だ。ここから平成ライダー作品群を星々になぞらえる比喩が成立する。実際、ディケイドで描かれた作品世界の融合はビジュアルとしては複数の地球の衝突、融合として描かれていた。またしても前置きが肥大化したがここでようやくP.A.R.T.Y.タイムだ。

「君はスターまばゆくシャイン」

どのライダーを「君」に当てはめても作品の輝きを肯定してくれる良い歌詞なのだが、毀誉褒貶の激しかった作品を主語として考えると感慨もひとしおだ。
私としてはジオウを「君」としたときの味わい深さを推したい。OQでは平成ライダー19作品をまとめ上げるための傀儡の王であった常盤ソウゴが失意のうちにあるとき、隣の牢獄にいた木梨猛に「お前もライダーの一人なんだ」と励まされ(?)(ノリダーの立ち位置を考えると熱いギャグシーンなんですよ)再び立ち上がる。
そしてオーマフォームになりナンバリングされなかったライダーともに戦う。平成ライダーを生み出した「平成」をリセットしようとするバールクスを打倒したソウゴはクジゴジ堂の仲間と一緒に何が起こるかわからない人生を歩み始める。


ソウゴ君は19作品をまとめるために存在する舞台装置ではなく、立派な20人目の平成ライダーだと語りかけるようなこの歌詞は多種多様な媒体に進出した「平成ライダー」のまとめられることを拒否するような豊潤さすら証立てている。


語り部ウォズが作品全体を見通す特権的キャラクターからジオウのキャラクターとして生まれ変わるサブストーリーも相まってジオウという作品の独り立ちはこの映画の大きな見どころだ。

「ライバルも逸材」

ウルトラマンシリーズやスーパー戦隊シリーズ、超星神シリーズにメタルヒーローシリーズ、牙狼シリーズなど実に様々なシリーズが直接/間接を問わず平成ライダーに影響を与え/与えられてきた。監督・脚本家・役者の発掘*1から作品のコンセプトまで多岐にわたる相互作用はライバルが顧客を奪い合う敵ではなくともに良い作品を作り上げようと瞬間瞬間を必死で生き抜いた逸材だと教えてくれる。もちろん作品制作は商売なのでシリーズにならずに消え去ることも、シリーズの制作が途絶えてしまうこともある。しかし、そんなライバルも含めて逸材なのだ。

「続けることが大事さ好きこそ上手なれ つまずいたってかまわない 七転び八起きスタイル」


ここの解釈は二通り考えられる。まず一つは作品が続いていく状況への言及。もう一つはシリーズが続く状況への言及。
ディケイド以降の平成ライダーはMOVIE大戦という前後作とのコラボ映画によってさらに作品世界を広げている。鎧武以降ならばVシネマも加わる。さらに小説やファイナルライブツアーで描かれる出来事が時系列に組み込まれることさえ珍しくない。


テレビ本編の完結性を下げる手法には批判の声もあるし、私も全ての作品が蛇足になっていないとは正直なところ言い切れない。それでも新しいものを生み出そうとする姿勢が傑作を生み出してきた側面は認識すべきだろう。

シリーズの継続についても似たことが言える。続いてきたからこそ作風にバリエーションが増えたし、子供世代の知名度もあげられた。劇場まで足を運びライダー映画を見ると昔のライダーにしっかりと反応する子供を確認できる。ブランド構築とは血を吐きながら続けるマラソンなのだ。


「点がつながりあい線になる一切」

どのような要素も他の作品の要素と響きあって見えてしまうファンの性を思い起こさせる歌詞ではないだろうか。ジオウの放送開始後に「Over ”Quartzer”」(こちらは番組主題歌のタイトル)の歌詞は過去作へのオマージュに満ち溢れていると主張する怪ツイートが出回った。私としては「考えた奴は馬鹿だけど頭から信じ込んで拡散する奴はもっと馬鹿!!!」としか言えないのだが膨大な作品群が些細な部分にも文脈を付加してしまう現象は実際にある。
今私が書いている記事も同じ穴の狢かもしれないが全ての歌詞にこじつけを行おうとしていない分罪は軽いと自分では考えている。


見方を変えてみると作品同士の繋がりは決してファンの妄想だけではない。製作時の試行錯誤は次に繋がっていたしゼロワン以後の令和ライダーにも繋がっていくだろう。たとえば「DXジクウドライバー」はベルトのバックルそのものが大きく回転する見た目にも大変楽しい玩具なのだが、このギミックの構想は「DXディケイドライバー」の制作時にまで遡るという。当時は技術が及ばず断念したが9年越しに実現に至ったのだそうだ。この裏話を知ると私などはディケイドライバーがジクウドライバーと二重写しになってしまう。

以上で歌詞の検討を終える。私はこの記事を平成ライダーを知らない人にも読んでほしいので本作の敵、クォーツァーが厭った「平成の凸凹」をほんの一部だけだが紹介しよう。

劇場版クウガに向けた署名活動
アナザーアギトの存在
オルタナティブゼロの存在
メイン脚本家が途中降板した剣
メインプロデューサーが途中降板した響鬼
ハナがコハナに変異せざるを得なかった電王
ディケイド最終回のBPO審議入りと再編集版
うんこちんぽこ(女神の名前)
東日本大震災により路線変更を迫られたオーズ
ゴーストもドライブも知らない脚本家が手掛けたジェネシス
放送時間変更に見舞われたビルド
菅田将暉が来れなかったせいか風麺のマスターから手渡されるダブルライドウォッチ
飲み会のノリで製作が決まった「仮面ライダーグリス」
ウォズの存在
令和一号ライダーをうたっていたのに数か月後には平成に生まれたライダーに振り分けられる「仮面ライダーブレン」

詳しく説明すると何時間かかるかわからない、よくも悪くも作品・シリーズの方向を変え、世間の耳目を集めた事件の数々が我々の知る平成ライダーを作った。

ところで昔、さくらももこの「そういうふうにできている」を読んで印象に残った部分がある。第一子の出産後に、「もしも神様が現れて『あなたと夫から一番優秀な卵子精子を選んで受精させて生まれた子供をそこにいる子供と交換しましょう』と提案されても絶対に断ろう」と思う場面だ。当時の私は彼女の気持ちを理解しようとせず「血が繋がってるし交換してもいいでしょ」としか思えなかった。だがすでに自分の人生の一部になったものを捻じ曲げてまで優れたものを手に入れたくない気持ちが今ならよく分かる。

フィクションとそれを取り巻く現実の衝突はどこにでもあるだろう。それ故にその衝突を勲章のように掲げてみせるOQは素晴らしいしP.A.R.T.Y.はあなたのジャンルのイメソンになれるのだ。

*1:ウルトラマンシリーズが坂本監督を日本に呼んだことは平成ライダーにとってもとても大きな出来事だった