はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

TAR/ター 158分の楽譜

「TAR/ター」を見てきました。といっても見てから2週間近く経過しているのですでに記憶は変質してしまっていると思います。

以下あらすじと感想。

 

リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ドイツの著名なオーケストラで初の女性首席指揮者に任命される。リディアは人並みはずれた才能とプロデュース力で実績を積み上げ、自身の存在をブランド化してきた。しかし、極度の重圧や過剰な自尊心、そして仕掛けられた陰謀によって、彼女が心に抱える闇は深くなっていく。

 

割と率直な感想を言えば「面白いと難しいのつばぜり合いを後者が僅差で抜け出した」となるが、それは面白さの不足というよりも難しさの過剰によるものだ、と思う。

 

この難しさはシーン単位での意味のつかめなさから来るのではなくて、作中でのさまざまな事件や異変が収束せずにむしろ発散していくというシーン同士の連関からきている。たとえばリディアの部屋から楽譜が消え、それを不審に思うシーンだけを見て混乱する人はいないだろうがこのシーンを見た視聴者が期待する「誰が何故楽譜を持ち去ったのか」の謎解きは映画を通して行われないために結果としてそのままでは据わりが悪くなっている。

 

いくつもの謎を残したまま閉幕し観客を不安定な宙吊り状態に置き去りにしてしまう本作は文字通りのサスペンス(suspense)である。

宙吊りになった観客が映画から抜け出し、地に足を付けるには自ら考えなければならない。そのためには作品のテーマを考えることが有効なはずだ。何について語られているかを把握することは武器になる。

 

主人公リディアが女性指揮者であり登場人物の間で音楽に関する議論がしばしば交わされること、リディアが同性愛者であり彼女が女性を登用する際に挟む私情がドラマを大きく動かすことから音楽と女性差別(女性が社会に出る上で抱えるハンデ)がこの作品のテーマといっても異論は上がらないだろう。つまり、本作における様々な謎を音楽史フェミニズムなどの観点に照らして見ていけばいいということになる。

しかしながら私は音楽にもフェミニズムにも詳しくないので別の切り口をどうにか考えなければならない(今のくだり丸々何?)。

 

さて繰り返しになるが音楽やフェミニズムに詳しい人ならこの映画をきっと上手に読み解いてみせるのだろうけど、私の身には余ってしまう。そこは詳しい人の解説に任せたい。

しかし専門的な知識を持っていなくても、二時間半の長さをもつこの作品には多様な見方があり得るはずで、「聞き間違い」「権力と選択」「(雑)音」をキーワードに私なりの見方を書いてみたい。

 

 

リディアと周囲の人物の会話ではしばしば聞き間違いが発生する。非常に身近であるにも関わらずフィクションでは再現されることの少ない聞き間違いはこの作品ではリディアの持つ権力と結びついているように見える。

リディアが権力を失う前と失った後では聞き間違いの様子は大きく変わっているのだ。彼女が権力を持っていた序盤から中盤にかけて発生した聞き間違いでは、彼女が発した言葉の意味を周囲がつかみ損ねているために生じている。しかし、リディアが凋落する終盤で発生したものになると彼女が周囲の言葉の意味を取り損ね、発言を訂正されてしまう。

 

「訂正する/される」の関係は「教える/教わる」、「正/誤」などの関係に対応しているのだろう。誰が会話の主導権を握っているかを分かりやすく示していると言ってもいいだろう。

 

強いていえば終盤にもリディアが聞き間違えられる描写は存在しないではない。彼女が仕事用に借りているアパートで奏でた音楽が、音楽に興味を持たない近隣の住民からは騒音として捉えられ、抗議を受けてしまう。

そこで奏でられていた音楽は間違いなく世界トップクラスで、お金を払ってでも聞きたい人が大勢いるだろう。それを単に騒音だと切って捨てる態度にはやはり問題がある。しかしこの「聞き間違え」は訂正されることなく、苦情への仕返しとしてリディアががなり立てる歌はもはや騒音になってしまっている。

 

リディアが教え子であるクリスタを自殺に追い込んだとする告発がもたらす転落はわかりやすく描かれているにも関わらずなぜ聞き間違いという補強が必要だったのか。

 

ここで一度「(雑)音」に眼を向けてみよう。作中での紹介によればショーペンハウアーは、「知性とは雑音に注意を向けること」(ニュアンス、ね)と語ったそうだが雑多な音の氾濫も今作の特徴と言える。オーケストラが奏でる音楽から、人の気配のしないアパートに響く足音、リディアの眠りを妨げるメトロノームの音、キーボードの打鍵の音まで無数の音が作品を通じて鳴り響いている。

これらの音には出所の分からない物も多く、そのためにリディアと観客の不安をかき立てる。

 

不安感が最高潮に高まる、忘れ物を届けにリディアが(廃)アパートに入るところから始まる場面で彼女と観客が感じる恐怖はアパートの廃墟のような有様によっても生じるが、専ら物音によって生まれる。強い不安の中で襲撃者を幻視したリディアは狼狽し、転倒によるけがを負う。

「姿を見せない襲撃者」はもしかしたら実在したのかもしれない。しかし、もしもそれが音を聞き取った人の脳内にのみ現れる怪物だとしたら、実際には風やガラクタが音を立てているのだとしたらリディアの怪我は聞き間違いが生みだしたと表現できるはずだ。

 

「声、音を解釈する作業」は過去に書かれた楽譜から音を聞き取りそれを再現する指揮者であるリディアにとっては欠かすことのできない作業であり、彼女が一流の指揮者として名を馳せてきたのも彼女の解釈の技量によるものだが、一方でその解釈が彼女の身の破滅を呼び寄せていたかのような描写も存在する。

 

先ほど少しだけ触れたがリディアの転落の決定打は彼女が教え子のクリスタのキャリアを故意に傷つけ(結果的に)自殺に追い込んだというスキャンダルなのだが、このような出来事があったとして何故教え子のキャリアを奪わねばならなかったのかの決定的な回答は(少なくとも直接的には)示されない。

 

弁明によればクリスタには不安定なところがあり、彼女に下した評価は不当ではなかったということだが、現実で様々なスキャンダルを耳にしている我々には加害者(とされた人)の弁明に留保をつけずにいることは難しい。

 

それよりむしろ注目したいのは、飛行機で移動するリディアが機上でノートに書いたKristaの文字ををat riskと綴り変えている*1シーンだ。荒唐無稽なようだがこのアナグラムの発見こそがリディアを危険なハラスメントに走らせたように私には思えてならない。

このような言葉遊びに見られる偶発的な事象への過剰な意味の読み込みは陰謀論者的なものといえる。

 

 

ここまで書いてきて気づいたのだが私は何度かこのブログで陰謀論について取り上げてきた。もしかすると私の中に色んな物を陰謀論と結びつけてしまう性向があるのかもしれない。

 

陰謀論と聞き間違えという二つの要素が何故か共鳴してしまっている「アンダー・ザ・シルバーレイク」の感想はこちら↓

tyudo-n.hatenablog.com

(今読むと少々恥ずかしいけどブログを書くってそういうことなんですよね)(成長したから若書きが恥ずかしいというより昔の文なので単に今の自分と距離がある)

 

この記事では短編ホラー作品同士を結びつけるファンの語りに陰謀論との接近を感じ、作品の構造がこの接近を誘発しているのではないかと書いている。

tyudo-n.hatenablog.com

(特によく書けたとは思えないんだけどアクセス数でいえば当ブログのエース)

 

閑話休題

 

最後に取り上げるのは「権力と選択」だ。この映画では一人の人間の栄光と没落が描かれるわけだが、途中までは没落の気配などほとんどなく、華々しい経歴は果てしなく続いていくかのようだ。この「望月の欠けたることも無しと思えば」感はリディアを演じるケイトブランシェットの風格と、リディアの好ましくない人を排除し好ましい人を手元に置いておく戦略が生みだした環境に負うところが大きい。

 

指揮者として君臨しキャスティングボートを一手に握ること、好ましい物と好ましくない物を分別する暴力性に彼女は無頓着であるように見える。

たとえばオーケストラのオーディションでは先入観を排除し、公平性を確保するべく受験者を見せないように仕切りの奥で演奏が行われているが、トイレで受験者と思われる人物に不快感を抱いたリディアは足元の特徴からその人物を特定し不合格にしてしまう。反対に付き人に対しては便宜を与えるそぶりを見せる。

 

頂点で自らにとって居心地の良い環境を作るために不快な物を排除し続けてきたリディアはスキャンダルによって一転排除される側に回り、とうとうベトナムでの再出発を図ることになる。

ベトナムでマッサージ店(を装った風俗……という理解で合っているだろうか)にてマッサージを受けようとしたリディアは半円形(オーケストラのよう)に並ぶ少女から一人を選ぶことを求められるが、黙って選ばれることを待つ少女を眺める内に吐き気を催し、路上まで走り嘔吐してしまう。排除される立場を経験したことで選択の暴力性に気づいてしまったということだろう。

 

ここまで書いてみてもこの作品の正体は一向につかめない。いくつかの軸のような物を設定しても初めに書いたような「作中でのさまざまな事件や異変が収束せずにむしろ発散していく」感じが抜けない原因の1つには私の読解力不足があるかもしれないが、そもそもなぜこうも難解にする必要があるのか。

 

結局のところこの作品は楽譜なのではないか。楽譜をどのように解釈し演奏者に再現させるのかのプロセスをリディアは対話に例えているが、私達に求められているのは映画との対話であり、当然ながら対話をすれば結果は人それぞれ異なってくる。勿論それは究極的には全ての映画(小説・ドラマ)に言えることではあるのだが「TAR/ター」の場合対話を自覚的に行っていくことが求められているという感覚がある。

 

おまけ

物語にとってハッピーエンドかバッドエンドのどちらに振り分けられるかなど重要ではないが今作のラストがハッピーエンドなのかどうかについて様々な議論があるようなので、最後はこの問題について私見を述べる(対話の実践?)。

 

リディアはベトナムの地でゲーム音楽の指揮に従事することになる。それは朗らかな再出発なのかそれとも失意の果ての不本意な結末なのか。

鬱陶しい部下を他の楽団へと追いやる際に口にした「(仕事さえできれば)指揮者にとって場所は関係ない」という趣旨の言葉がある。もっともらしい言葉だが状況を考えればこれはお為ごかしで本心からの言葉ではない。このような偽善的な発言が跳ね返っている皮肉を考えるとバッドエンドだったのではないかと思う。

*1:綴り変えは他の場面でも見ることができる。廃アパートではTARはRATに綴り変えられてしまう