はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

フェイクドキュメンタリーQ 意図的な欠落が「考察」を呼ぶ

フェイクドキュメンタリー「Q」が非常に見応えがあると最近話題になっているので見てみました。

 

私のホラー遍歴

今回は初のホラー作品を扱った記事となりますが、今後このカテゴリーで記事をたくさん出すとも思えませんのでこの希な機会を使って私的ホラー史がどんなものだったのかざっくばらんに書いてみましょう。

 

子供の頃は人並みに恐い話が好きでしかも本もよく読んでいたので怪談やオカルト関係の知識は同世代のなかではそれなりに持っていたはず。しかし、映像作品としてのホラーにはどういうわけかあまり触れてこなかった。「ほんとうにあった怖い話」、「世にも奇妙な物語」などのド定番くらいしか記憶にない(そういえばアニメ版怪談レストランなんてのも見てましたね……)。ホラーゲームに至っては記憶の限りでは本当に全く触ったことがない。

 

長じてからもホラーとの付き合いはもっぱら小説を通してのものだったし、それも「ホラーを読もう」という意思に基づいてのものではなくって、作家読みをする中で自然に触れるというパターンが多かった。ミステリ作家は何故かホラーを書きがちなので京極夏彦の「」談シリーズや綾辻行人の深泥ヶ丘奇談、舞城王太郎の深夜百太郎、飛鳥部勝則諸短編などには自然に目を通したし、森見登美彦のきつねのはなしも今思えばホラーだった。

 

角川ホラー文庫貴志祐介や飴村行、小林泰三に触れたときですらホラーを読んでいるという意識ではなかった*1し、明確にホラーだと思いながら読んだのは小野不由美残穢と鬼談百景くらいなものかもしれない。

 

そんな私なのでホラー映画などは白石監督作品がTwitterで話題になっていなければ全く見ていなくても不思議ではなかった。監督の代表シリーズの「コワすぎ!」では悪趣味なギャグに手を叩いて笑ったり、駄目人間の工藤が露悪的な振る舞いを剥ぎ取られて子供じみた部分を見せる場面にほろりとしたりととても楽しかった思い出がある。

その他のホラー映画では「ヘレディタリー」や「ラストナイト・イン・ソーホー」に心底震えた*2

 

書いている内に思い出してきたが、中学生になってからは意味がわかると怖い話や洒落怖の殿堂入りにはまったこともある。個人的には長編になるとどうしてもフィクション感が拭えなくなってきてしまう気がして、巨頭オやくねくね、あなたの娘さんは地獄に落ちましたのようなシンプルな話が好きだった。

 

自分のホラー遍歴なぞかんたんに書きだせるだろうとずらずら書き連ねていたら存外長くなってしまった。ただまあこの漫然とした書き方から私がホラーについて体系的に語れる人間ではないとおわかりいただけたのではないでしょうか。

 

フェイクドキュメンタリー「Q」とは

というわけでそんな人間が「フェイクドキュメンタリーQ」について語ります。この作品はYouTubeで無料で配信されていて、形式としては短編モキュメンタリー集になる。モキュメンタリーというのは私も「コワすぎ!」で初めて知ったのだがドキュメンタリー風のフィクションのことでホラーではよく採用されているらしい。

 

初めから嘘を標榜しているから没入できなくなるかといえばそうでもなくて、手ブレや会話・小道具のリアルさを見る内にふと「これは本当にあった出来事なんじゃないか」という気がしてくる。そもそも映像作品の形をとったホラーは嘘なのに(原因がはっきりしない映り込み程度なら「本物」≒作意がないと思えなくもないが)「これは本当じゃないですよ」というエクスキューズを入れているモキュメンタリーが本当らしく見えるのは不思議なことだ。

 

 

「Q」の存在を知ってから視聴するまでは数ヵ月のラグがあったがいざ見始めると、一本が15分程度なのでサクサクと進み、立て続けに3話見られた。私としては1話は誇大広告とはいえ呪いのビデオを淡々と見せる店主の不気味さが良かった。2話は不気味な雰囲気を楽しみつつもノイズがひどくて聞き取れない音声の多さにフラストレーションも感じてしまった。

3話では不自然な点の多さから、なにか裏があることが読み取れるが、具体的なことがよくわからない。ここでいわゆる考察が要求されていること(とコメント欄で考察合戦が繰り広げられていること)に気づく。となると4話以降を額面通り受けとることが難しくなってしまう。

 

ホラーとしての怖さ

この作品の様々な怪しさについて触れる前にまず、フェイクドキュメンタリー「Q」がホラーとしてしっかり怖いことに触れておきたい。個人的に恐怖を覚えるのはなんといってもQ8「光の聖域」。

なんだかよくわからないがとにかく逃げなければならないのに、細い山道のために車は切り返すことができずじわじわとバックするしかない。幕開けの唐突さも相まって悪夢めいた状況はそれだけで充分恐い。

あるアクシデントにより緊張が最大限に高まったところで道ばたに立ちすくんでいた複数の白装束に押し入られる。撮影者の叫び声が止むと車はゆっくりと前へと進んでいく。

私のつたない説明より直接見ていただく方が良いですね。たった7分なので是非見てください。

www.youtube.com

 

 

その他の作品では遺品のあからさまな不自然さも恐ろしいし、オレンジロビンソンも割とわかりやすい考えオチながらしっかり怖い。Q11も行方不明者という現実にもしっかり存在する恐怖を取り扱っているため真に迫った恐ろしさがある。

 

じわじわくる怖さ

「Q」のコメント欄でよく目にする「じわじわくる怖さ」というワード、私も同意できる言葉ではあるが具体的には何を指しているのだろうか。恐ろしさ・嫌な感じが持続すると言い換えてもいいがそれは一体何故もたらされるのか。

 

過剰な演出の排除や分かりやすいクライマックスを作らずにその一歩手前で立ち止まるような展開……勿論それもあるだろうが私としてはその原因を「解釈の不在」に求めたい。

 

「Q」ではどの動画をとっても怪異への解釈が視聴者に与えられない。いや、モキュメンタリーという形式上撮影者や出演者の解釈が語られることはある。ただそれが説得力に乏しかったり他の明確な怪異を取りこぼしたものなので視聴者にとっては到底満足のいくものではないのだ。だから正確に言えば動画内での解釈が機能不全を起こしているとするべきかも知れない。

また、東北の秘儀を撮影した映像に解説が付されたものやお蔵入りになったテレビ番組の製作途中の映像に編集が施されたものなど出自や目的がよくわからない映像も多い。

 

なぜこのような事態が起こっているのか考えると、映像制作者(画面内)の作為を感じる。うまい言葉が見つからないのだがプロパガンダ的な性質を持たされた映像のように感じるのだ。となると、実際の制作者とは別に作中では姿を現さない編集者の意図も読まなければならない。

 

二者が異なった意図を持っている証左として実際にYouTubeで表示されるタイトルと動画内で表示されるタイトルが一致しない (ラスト・カウントダウンのみ二つのタイトルが一致している。フィルムインフェルノは動画内ではフィルム・インフェルノと微妙に異なったタイトルになっている) ことがあげられる。

 

 

ラスト・カウントダウン

13本の中で唯一1つのタイトルしか与えられていない「ラスト・カウントダウン」。

一見脈絡のない映像をカウントダウン形式で連続させることで視聴者を思考の泥沼に引きずり込む構成は12本の動画が収められている共通点もあり「Q」そのものの相似形のようでもある。

 

この動画に収められた映像は12本だったが期間限定で公開されたバージョンでは1本追加されていたらしい。特別バージョンの公開がフィルムインフェルノ公開前だったことを考えると何かしらの相関関係を疑いたくなるがはっきりしたことは分からない。ただ先ほど触れたタイトルの一致も合わせて考えると何らかの特権姓を与えられている可能性は高いのではないか。

 

 

拡大するQの世界

「Q」を楽しむ上で動画のコメント欄は非常に大切な場で、寄せられた指摘を念頭に動画を見返すことで一人では決して気づけない動画間のリンクに気づくことも何度もあった。しかし、その上で言ってしまうと「考察」は玉石混淆、思わず唸ってしまうようなものから「こうだったら怖いのでこうなんだと思います」という風にしか聞こえない説得力に乏しいものまで様々だ。

 

「考察」を誘う作りになっており、かつ現時点では答えは明示されていないコンテンツの性質上様々な意見が出るのは自然だし健全なことだろう。それでもインパクトばかりが強くて荒唐無稽な意見とそれにうなずく一部の人を見るとセンシティブな話にはなるが陰謀論者を思い出してしまうのだ*3

そこで私は思うのだが、フェイクドキュメンタリー「Q」のQはひょっとするとQアノンを意識しているのではないだろうか。無論これは単なる妄想だ。言いがかりとさえ言っていい。ただこの妄想を前提にすると「フェイク」という単語も二重の意味を帯びては来ないだろうか。

 

続編の製作も正式に発表されたとのことなのでそこで真相が明らかになることを望む人も多いが私として単純な答え合わせはやらないのではないかと予想している。恐怖に主眼を置くなら真実を明かしてしまうのは悪手だろうし、ここまで用心深く真実を隠し続けている作中の映像制作者が易々と真実を明かすとも思えない。そもそも真実が明かされたところでそれが混じりっけ無しの真実だと誰が保証してくれるのか。

こう考えると続編では一部のリンクが明かされつつも全体としては謎が深まって行きさえするのではないだろうか。

 

*1:自分の中にぼんやりとある「悪趣味小説」という区分に平山夢明戸梶圭太あたりと一緒に入っている。貴志祐介は毛色が違うが。

*2:特にラストナイト・イン・ソーホーはホラーと知らずに見に行ったので本当に怖かった

*3:繰り返しになるが様々な意見が出ることは自然であり健全なので考察の中に陰謀論に近似する物があったとしても責められることとは思わない