はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

嘘喰いとバトゥーキ 知による掌握から暴による相互理解へ

迫稔雄によって描かれた漫画「嘘喰い」と「バトゥーキ」、かなり雰囲気が異なる作品なのだが続けて読むことによってテーマ、あるいは作中の哲学に関連性があるのではないかと思えてきたため今回は二作品の連続性について考えてみたい。

 

 

嘘喰いはギャンブル漫画に分類される。全539話の長編で扱われる数々のギャンブル(ゲーム)は全て対人ギャンブルだ。

対決者は互いの指しうる手を比較し、対戦相手の手に合わせた最善手を指す(ゲーム風に言えばメタる)必要がある。そのためギャンブルで勝利に近づくには、対戦相手の思考回路を把握しきらなければならない。主人公であり作中最強格の貘がパチンコのような機械相手のギャンブルは不得手なのは機械には読み取るべき心が存在しないからだろう。

 

 

裏を返せばギャンブルで負けないためには自分の考えを読まれてはならない。そこで登場するのが「嘘」だ。

改めて説明するようなものでもないが嘘とは他者からの理解を妨げるものだ。貘は鋭い洞察力と思考能力で嘘を見抜き、喰らう。一般化すれば嘘喰いとは他者の解析である。

 

 

具体例としてサブキャラ同士の戦いであるバトルシップがわかりやすい。10×10のマス目の中に隠された大小様々の船を探り当てるゲーム、バトルシップ。レーシィと大船額人(ガクト)が密輸船の出航を賭けて戦う。

 

レーシィはソビエト連邦に拠って保たれる秩序に忠誠を誓っていたため体制の崩壊の際には資本主義への鞍替えを潔しとせず反体制の側へと身をやつした過去を持つ。

ガクトは最後の潜水艦の場所を見抜くにあたってこれまでの船の配置を踏まえ、レーシィの秩序への憧憬を思いながら正解へとたどり着いた。

 

エア・ポーカーや屋形越えでは「彼ならどう考える」を主軸にした勝負が行われていて、クライマックスにふさわしいものになっているといえる。

 

これは私の妄想なのだが、最後の敵であるゴーネンはいずれ貘と戦うことになるのだと思う。貘そっくりである彼との戦いは一種の「自己理解の戦い」だ*1。そして、このテーマは嘘喰いで描かれるべき範疇を超えてしまったために物語は貘の復活で終わるのではないだろうか。

 

このままバトゥーキの話に移行したくもあるが嘘喰いの特徴の一つである暴パートにも触れる必要がある。暴パートとは格闘戦が描かれるパートだが、なぜギャンブル漫画で格闘戦が出てくるのか、その理由付けが実に理にかなっている。

 

ギャンブルで勝敗がつけば賭けたものの引き渡しが行われるが、実効力を持たない約束はいとも簡単に破られてしまう。こうした事態を防ぐ、あるいはちゃぶ台返しを行う側に立つには暴力を行使することが最も効果的だ、という思想が嘘喰い世界にはある。

物語の中心にある、戦国時代から存在する巨大組織「賭郎」などは確実な取り立てを目的として生まれたため一騎当千の強者揃いだ。

そうして嘘喰いでは頭脳戦()と平行して格闘戦()が描かれる。

 

 

暴の世界における頂点の一人伽羅は常に勝者であることを自らに課す。彼の生き方に危うさを覚える三鷹花が語る昔話*2は重要だ。食物連鎖の頂点に立つ熊を撃とうとした猟師は思いとどまる。俺もいつか狩られてしまうのではないかと悟ったからだ。

「どこかで捕食されることになるから連鎖を断ち切れ」という花の忠告もむなしく伽羅はキョンホ・ジョンリョと相打ちになった。もっとも、彼の戦いは貘の勝利のためのものであって命を賭けるにふさわしい場所だったことは言い添えるべきだろう。

 

 

勝利を積み重ねたものはやがて身を滅ぼすという法則はむしろ知の領域に立つもの達にこそ当てはまる。九重太郎(Q太郎)、佐田国一輝、天真征一、城道、ビンセント・ラロなど実に多くの人間がギャンブルの果てに命を落とした。ある者は賭けた命を取り立てられ、またある者は思いもしなかった不運に見舞われ、ある者は負けを取り返そうと欲をかいて退場してしまう。

 

伽羅の生き方は猟師に重ねられたが、先日「狩りの思考法」を上梓した角幡唯介氏によれば、狩りとは征服などではなく、些細な痕跡を元に対象に深く同化する行為なのだそうだ。知と暴の奇妙なねじれを想起させる話なので紹介させていただいた。

 

先の見えない不確実さの中で一歩踏み込む勇気のようなものもテーマといえるだろうが、バトゥーキとの関係から割愛する。

 

さて、バトゥーキについては「異類の青春少女大河」なるジャンル付けがされていて、確かに既存ジャンルに収めにくい。

こちらのメインテーマはおそらく「自由」なのだがこれも嘘喰いと絡めづらそうなので捨て置く。

 

中心にあるのはカポエイラという格闘技だ。カポエイラはブラジルの奴隷達によって作られた文化であり、(少なくともバトゥーキにおいては)ライフスタイルや価値観を反映する。やや陳腐な文言になるが人間としての総合力が試されると言ってもいい。

 

 

主人公である三條一里(いっち)の最大の強みは、感情の大きな振れ幅によって千変万化するファイトスタイルだ。時に喜びながら、時に怒りながら、時に哀しみながら、時に楽しみながら戦うその姿に人は翻弄され、対応しきることは難しい。

「内面を把握しきらせないことで勝利をつかむ」。何かを思い起こさせないだろうか。そう、ギャンブルにおける嘘の役割と通じる物があるのだ。

違うのは戦いの中での感情の発露は、自分を見誤らせるものではなく、自己開示になっている点だろう。

 

 

格闘による自己開示は一方的なものではなく相互に行われている。たとえばジョーゴ(緩いスパーリングのようなもの)でいっちと友人の純吾は語ることなく対話を行い、互いの気持ちを把握しあう。

BJワークショップで出会ったフォルチ(強者)は、嘘喰いと戦ったギャンブラーとは異なりいっちとの間に友情を育む。敵のその後の扱いは舞台の差もあるだろうが根本的には作品の価値観の違いではないか。悪軍連合の主だったメンバーがいっちに力を貸す展開にも期待していいだろう。

 

戦いを通じて得られたつながりによって自分の内面がさらに豊かになっていく。カポエイラの多様な営みがそれを後押ししている。

 

知から暴へとフィールドを変え、敵である他者とより深い関係を築いていく。二本の漫画からはそうしたラインが見えてくる。

*1:わずかにかかれた範囲でもゴーネン氏の性格は貘とは異なる。しかし、彼の名は「エピゴーネン」から来てるであろう

*2:せんぐり喰いという実際に存在する話のようだ