はぐれ者の単騎特攻

ニチアサや読書について書くはずです

哲学者の密室 笠井潔

tyudo-n.hatenablog.com

上掲の記事でも書いたが、哲学者の密室は私にとって10年近く読むことができなかった本だ。読むことから逃げていたと言ってもいい。文庫にして1000頁近い分量……だけならたじろぐには当たらない。当時読んでいた京極夏彦百鬼夜行シリーズでは1000頁を超す大長編など珍しくなかったのだから。

 

 

では何故読めなかったかというと、昔の話で憶測が混じるが「本邦が誇る最高のミステリ」などの謳い文句と「哲学者の密室」というどうしたって気楽な物語など望めそうにないタイトル、そして矢吹駆シリーズ4作目の位置づけが絡み合った結果なのだろう。

 

いつか読まねばと年に一度は思い出しつつ後回しになっていたのをなんとなく挑戦する気になったのが今年の7月頃。10年間の間に三大奇書に「匣の中の失楽」、「ディスコ探偵水曜日」、「天帝のはしたない果実」などの有名な長編を読んで、残す有名どころは「奇偶」と本書くらいになったことや、笠井潔にまつわる評論「数学者と哲学者の密室」が出版されたことでとうとう機が熟した観があったからだ。しかし今感想を書く段になって頭を抱えている。まだ読むのには早かったのかもしれない。

 

哲学論議と密室論議は密接に絡み合い、過去と現在の事件は謎めいた呼応を見せ、(哲学的)密室論の中にはメタミステリ的な読み方を誘うような言葉まで入っているという難解さを前に分かったふりをしようとは思わない。

なので、あらすじを書いて「おもしろかったです」とだけ付け加えて終わりにしてしまいたいくらいだが、わざわざブログ記事にするからには間違っていようとすでに指摘済みだろうと自分なりの意見や理解の仕方を表明した方がいいと(勿論これは個人のポリシーだが)思うので恥を恐れず思いつくまま書いてみたい。ここからはネタバレをある程度含みます。

 

あらすじ―三重の密室

実業家フランソワダッソーの屋敷で他殺体が発見された。匿名の通報を受け現場に到着したルネ・モガールは捜査の結果、現場は三つの障害に囲まれた「三重の密室」であったと結論せざるを得なくなる。一方この事件にニコライ・イリイチの影を見るナディアは、カケルが事件に関わる前に解決すべく果敢に推理に挑むのだが、謎は30年前にナチスドイツの収容所で生まれたもう一つの三重の密室を飲み込み膨れ上がっていく……。

 

思想と推理の結びつき

シリーズの過去の作品と比べたときの一番の特徴はカケルが一度誤った推理を披露してしまう点にある。今まで彼の無謬性を保証してきた「現象学的直観」は事物の中から中心となる物を選び、その本質をつかむことで論理を組み立てるものだったが*1、推理が誤っているということは事件の本質をつかみ損ねていることになる。

 

 

対照的な思想を持つ二人の哲学者ハルバッハとガドナスの間でカケルは密室の本質をつかみ取ろうとするのだがこの過程が本書の胆だ。

 

多くの共通点からハルバッハ≒ハイデガー、ガドナスレヴィナスであることは確実なのだが*2、作中の思想がどこまで現実のそれを反映しているのかはよく分からない。

 

ともかくハルバッハは死の可能性を直視し(=日常に埋没してしまった本当に大切な物を自覚し)生を充実させることで「特権的な死」に辿り着けると説き、ガドナスは死は生と分離した物ではなく、人から主体的な可能性を奪い単なる存在におとしめる「宙づりにされた死」があると説く(説いているはず)。

 

 

両者の思想を密室論に敷衍させていくとどうなるか。具体的な議論の道筋をたどる気力はないので結論だけ抜き出させていただくと、ハルバッハ論では「死の可能性の隠蔽としての、特権的な死の人為的な封じ込め」「ジークフリートの密室」となり、ガドナス論では「特権的な死の夢想の封じ込め」「ファーフナーの密室」が密室の本質になる。

 

両者の意味について簡単な説明はしよう。いきなり前後するようだが特権的な死とはなにか。それは意味のある(他人のものと区別できる)華々しい死といえる。

 

ハルバッハ論では密室の中の自殺は、本来コントロールできない死の運命をコントロールする試みであり、それは死の本来のあり方の隠蔽である。

殺人は被害者の死の露見と共に潜在的に想起される刑罰としての加害者の死の隠蔽である。

 

続いてガドナス論では自身のユダヤ人収容所での経験(大量の尊厳なき死)から特権的な死を否定する。そこでは死の悍ましさを封じ込める匣として密室は機能している。

 

作中ではガドナス論を援用して真相を看破していることからハルバッハ論は偽、ガドナス論は真と扱われている。

革命が内部の果てしない粛清に転化するメカニズムを追求するシリーズなので、日常を忌避させる(特に感じやすい若者にとっては)哲学が否定されるのは自然だったと思う。

 

ナディアの推理

「バイバイ、エンジェル」ではカケルに対抗意識を燃やして推理を提出するもにべもなく否定されるなど空回りするヒロインの趣が強かったナディアが今回は論理的整合性のある推理を提出したのは現象学的直観の必要性を示すため。ガドナスも指摘したとおり「単に事実に整合的な仮説ならいくらでも立てられる」というカケルの持論を実例でもって補強する形になっている。

 

彼女の推理は誤っていたがこれまでの推理よりも完成度の高い物だったのは確かだ。カケルとともに思想に触れる中でナディアにも心境の変化はあった。

死の可能性に変わってナディアの生を充実させる「愛の可能性」がカケルとの関係を再定義することで今回の推理をなしえたのかもしれない。

 

 

雑感

批判されていそうな点として、現代の三重密室を解く重要な手がかりが下巻の後半にいたってようやく現れる部分をあげられる。

しかし、手がかりを見落としていたのは密室へのアプローチがそもそも違っていたからと考えられるのではないか。ナディアの推理と併せて今回の事件を解決するには思想が必要だったことを補強している(当然だが普通なら後出しの手がかりは非難される)。

 

それでも過去の三重密室の構成方法についてはやや無理がある気がしてならない。可能不可能で言えば可能かもしれないがやり直しがきかない殺人で成功させるのは至難の業ではないか。

 

メタミステリ的な意味合いについては全くもってお手上げ。10年後に再読すれば理解できるのだろうか……。

 

追記 2021下半期の本10冊でも取り上げました。

tyudo-n.hatenablog.com

*1:例えば或事件の中心となる概念が首切りだとすれば、首切りについて考察を重ね「隠匿」というキーワードに到達する。そこから犯人が隠蔽しようとした物について考え……というような

*2:僕は前者しか気づけなかった